無知の認識

今年のベストセラー『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)は一読に値する本である。
その中で、17世紀の「科学革命は・・知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だった」と述べている。
また、「進んで無知を認める意思があるため、近代科学は従来の知識の伝統のどれよりもダイナミックで、柔軟で、探究的になった」と。
この無知の認識は科学・技術の探究だけでなく、人生を送る上においても大切である。
自分は無知である、何も知らないという考え方が傲慢にならず、謙虚で感謝に満ちた人生を生きられる。
謙虚になると少し先を見せてくれる。
傲慢からは何も生じない、思考停止である。
私の経験では無知の自覚が見える世界だけでなく、見えない世界の扉も開かせてくれると思う。
見えないものを見ようという努力が、宮本武蔵の「観見二つの事」、世阿弥の「離見の見」のように、ものごとの本質を観抜く力が養われる。
皮相的な見方ではなく、現われた現象の裏にある本質的な「意味」を理解できるようになるだろう。
それにより、人生の深い意味を理解し、“something great”の意図も感じられるようになる。
まさに、心耳、心眼でものをみるやり方である。
芥川龍之介の「末期の眼」の感覚も同じであろう。
見える世界だけに囚われて、自分が無知であるという自覚が薄くなると本質が分からなくなる。
カエサルがいう「多くの人は見たいと欲するものしか見ない」状態になる。
見えないものの中に本質が隠されている。
この感覚が科学でも人生でも新しい発見、納得に繋がっていく。
 
般若心経の中にも「無無明尽」いう言葉がある。
我々人間はそれほど賢くない、無明(無知)は尽きることはない、無知だから悩みも尽きない、無知だから起きた現象の「背後にある知恵」が分からないと。
だから「無知という自覚」があれば、少しでも背後にある知恵や宇宙の摂理が分かってくるのではないだろうか。
無知の知」がなければ、全て分かっていると思い、その瞬間に、思考停止と傲慢がはびこるだけである。

今、宇宙でもダークエネルギーダークマターが解決できていない問題として残っている。 
いずれは解明されると思われるが、同じように「ダークナレッジ (Dark Knowledge)」が見えない世界に存在するように感じている。
ダークナレッジを解明しようという無知の認識が科学革命と同様に新しい扉を開くかもしれない。
それが人間の叡智になるだろう。
現在、マインド・フルネスや気付きの重要性が叫ばれている。
これは見えない世界を見ようという努力であり、無知の自覚により、謙虚になった時に初めて何かをつかむのである。
無知の認識により生じた科学革命は産業革命を通じて人類に多大なる貢献をしたことは事実である。今、我々はその成果に浴している。
しかし、その知性至上主義は新たな問題を引き起こしている。
デカルト、ベーコンによってもたらされた人間の理性・知性が自然を支配できるという思想(傲慢)が環境問題を引き起こしている。
無知の認識によってその扉を開いた科学革命は自然を無機質な機械と捉え、自然は生きているという生命的なものを切り捨てたのである。
ものごとを追求していくとその過程で二次的なものを捨象する。 
それが現在、環境問題、資源問題として人類を苦しめている。
このパラドックスを考えなければならない。
ある考え方を一方方向に導くと必ず、捨象するものが生じる。
これが科学的方法論である。
複雑系を複雑に処理することは難しい。
捨象されたものを如何に拾い上げていくかも今後の人間の叡智である。
これが二元論の先にあるものである。
無知の認識は新たな無知を呼び起こすがこれこそが人間に課された課題であり、解決されたと思ったらさらに解明すべき課題が横たわっている。
この絶え間ない探求が人類の進歩なのではなかろうか。

皆様の2017年が素晴らしい年になります様に!