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努力について

2016年の本屋大賞をもらった宮下奈都氏の小説『羊と鋼の森』の中に次の様な文章が目に留まった。

「努力していると思ってする努力は、元を取ろうとするから小さく収まってしまう。自分の頭で考える範囲内で回収しようとするから、努力は努力のままなのだ。それを努力と思わずにできるから、想像を越えて可能性が広がっていくんだと思う。」

よく聞く言葉に「これだけ努力したのだから果報は寝て待て」、「人一倍努力したのだから自信を持って臨みなさい」、「努力は嘘をつかない」「努力に勝る天才なし」とか、挙げれば切りがない。
努力はもちろん重要である。しかし、「努力に見合うだけの結果が欲しい」という考え方に何か功利的、打算的な意図が見え隠れしないだろうか。

この考えを進めるとこれこれの結果が欲しいからこれくらいの努力をするという本末転倒の考え方に行きつく。だから、上記の小説のようにその結果も小さく収まるのである。結果が見えなければ努力しないという考えである。人間が考える結果なんかは所詮小さいのである。結果を意識せずに努力していると思わぬ結果が現われてくるのが現実ではないだろうか。

リターンを意識しない、さらにはそれを求めない生き方の重要性を上記の小説は暗示している。研究におけるセレンディピティもこのことを示唆している。
以前、私は『陰徳と陽徳』というタイトルで文章を書いたことがある。その中で次のように述べている。
「陰徳とはリターン(見返り)を期待しないで善行(徳を積む)を行うやり方である。最初から論理的に考えた結論より、偶然出くわした発見を論理的に詰めていく時、大きな成果につながることが多いと感じている。これをセレンディピィティという。人間の論理的思考には限界があり、偶然性や直観力が重要な意味を持つことを示していると思う。素晴らしい研究成果を挙げた人の話を聞くと、研究している時は“ゾーン”に入った状態で、他の研究者と自分を比較したり、嫉妬する感情はなく無心に取り組み、ただその研究が面白いからやっている状態が続くらしい。要するに、その研究が成功した暁には有名になるとか、出世するとか、お金が儲かるといったリターンを期待せずに無心になることが大切であること暗示している。」
また、『怒りのぶどう』で有名なノーベル賞作家スタインベックは「天才とは、蝶を追っていつの間にか山頂に登っている少年である」という。

我々は兎角、世俗的欲求を最初に考えがちであるが、それが如何に空しいものであるかを悟らなければならない。無心に努力していると想像もつかない高みに達する。これは理想的な境地であるが深く考えてもよいテーマであると思う。