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「圧倒的悲劇を前にして小説は何ができるのか -マルチの視点-」

2011年。3.11の東日本大震災の後、表題の言葉は小説家達が発した言葉である。
小説家の想像を絶する惨事を前にして小説は再生や希望、あるいは癒しを提供できるのかという意味である。

当初、私は小説のようなものが不条理な悲劇を被った人達を救えるとは到底思えなかった。今でも「救う」という言葉には抵抗があるが、再生していく一つの力になるのではないかと思っている。
その惨劇が起こった「意味」を考える。過去の行動を反芻してウジウジ(?)反省するのではなく、むしろ未来に対する「意味」を創造することが大切になる。そのヒントを提供するのが小説の想像力ではないだろうか。
「なぜ私だけに起こったのか」と繰り返し、繰り返し過去を振り返り、出口のない後悔にはまり込むのではなく、未来に対する「意味」を考える多角的視点。このマルチの視点の提供こそ小説の役割であろう。今まで考えてきた単一の価値観ではなく、新しい視点、悲劇が起こった自分なりの「意味」が腑に落ちた時、未来への希望が湧いてくる。

もちろん、肉体労働のボランティア、エンターテインメントも一時的に悲しみを癒してくれるだろう。しかし、本当の心の再生の為には悲劇の「意味」、これから生きていく「意味」を納得した時、体の内側からエネルギーが湧いてくる。これを考えるヒントがマルチの視点だと思う。身に起きた悲劇の感傷に浸るだけでなく、むしろその悲劇が契機になって生まれた新しい人生を生きる精神的糧が「意味」である。中国文学の泰斗の吉川幸次郎が次のようなことを云っている。
唐詩杜甫が代表)は絶望や悲哀が中心であるが、宗詩は唐詩と異なり、「多角的な巨視による悲哀の止揚」と述べている。人生に対する大きな視点を持ち、 悲哀を乗り越えるのだという意味である。宗詩の代表格は蘇軾(東坡)である。多面的なものの見方が人生の絶望さえも乗り越えることが出来る(『宗詩概説』)。絶望や悲哀の情緒的「感傷の美」に浸るのではなく、多面的な見方の大切さを示している。
また、米国の若手の社会学者、エイミー・L・チュアは 「世界をリードする最強の条件は『寛容性』」である」と云う。寛容性とは多様性を認めることから生まれてくる。
IBMフェローの浅川智恵子氏は、本人も障害者である経験から、障害者がイノベーションの源泉・触媒になるという視点を指摘している。障害者の持つ創造性への寄与を力説する。

現在は「多様性(ダイバーシティ)の時代」 とも云われている。
他人の価値観の尊重、多くの意見の交流から新しい考え方が生まれる。教条主義的な価値観の押しつけからは何も生まれない。我々人間はそれほど賢くないのである。
「無知(仏教では無明)」であることを悟ることから先が観えてくる。
般若心経の言葉に「無無明尽」という言葉がある。意味は「無明は尽きることがない」ということらしい。無明(=無知)だから悩みも尽きることがないと。無知だから、起きた現象の背後にある知恵が分からない。これには宇宙の摂理やsomething greatの意図も含まれる。

「圧倒的悲劇の現実を前に虚構の小説が何の役に立つのだ!」という意見もあるだろう。
見えるものだけの世界の論理だけではこの世の不条理は解けない。逆に、虚構の世界の鏡に現実に起こった悲劇を映すことにより、現実の世界の矛盾や不条理の「意味」が見えてくる可能性がある。見えないけれど観ようとする努力の一助が「多面的な思索」である。
それを提供するのが小説ではないだろうか。虚構の世界が実は本当の世界であるというパラドックスを我々は真剣に考えてみる価値がありそうだ。


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