陽徳と陰徳

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陽徳と陰徳という言葉がある。
前者は見返りを期待して善行を行うこと(徳を積む)で後者は見返りを期待しないで徳を積むことを意味する。母の自分の子供に対する愛や慈しみは陰徳であり、菩薩愛ともいう。
最近の知謝塾(2015年5月30日)で(株)メンバーズ執行役の原裕氏のCSVの話を拝聴した。CSVはCreating Shared Valueの略で日本語では共通価値の創造と訳すようだ。簡単に言えば顧客やステークホルダーの為に価値共有や善行を積みながら、そしてそれが会社の利益につながるという会社のヴィジョンである。
このCSVマイケル・E・ポーターが提唱している競争力を高める企業戦略の考え方で、いかにもアメリカ的で論理的にみえる。あくまで会社の会計指標ROI(Return on Investment)につながる経営戦略である。
一方、同じような言葉にCSRという言葉がある。これはCorporate Social Responsibility の略で、企業の社会的責任と訳されている。会社の利益の一定額を社会に還元する考え方で、社会貢献活動(フィランソロピー)、慈善活動、メセナのことを云う。リターンを期待しないところは陰徳に繋がる考え方と思う。企業にとっては利益を出すことが最終目標であるのでどちらが正しいというものでもないが、CSR的行動に親しみを感じる。東洋的な心情なのであろうか。

研究者としての経験からいうと、最初から論理的に考えた結論より、偶然出くわした発見を論理的に詰めていく時、大きな成果につながることが多いと感じている。これをセレンディピィティという。人間の論理的思考には限界があり、偶然性や直観力が重要な意味を持つことを示していると思う。素晴らしい研究成果を挙げた人の話を聞くと、研究している時は「ゾーン」に入った状態で、他の研究者と自分を比較したり、嫉妬したりする感情はなく無心に取り組み、ただその研究が面白いからやっている状態が続くらしい。要するに、その研究が成功した暁には有名になるとか、出世するとか、お金が儲かるといったリターンを期待せずに無心になることが大切であることを暗示している。
最初から営為の結果(リターン)を求めても、そう簡単にいかないのが世の常である。むしろ、逆の結果が現われてくることもある。
人間誰しも欲がある。欲があるから、他人より偉くなりたい、負けたくない気持ちがバネになっていい仕事をする人も多々ある。いい仕事をして社会的に偉くなってもそこから権力欲に目覚め、晩節を汚す人もある。最近の研究者の背信の問題も根底ではこのような精神状態に起因する。

欲には際限がない。若いうちは欲の塊であり、「モノ」に憧れる。「何を持っている」「何に成った」と自慢したくなる。その後、「モノ」の虚しさも感じ始め、「知」に憧れる。「モノ」を背後から支えているのが「知」である。知識、世の中を支配している「知」、教養等に価値を置くようになる。上の図に示すように人間の進化とは「モノ」から「知」そして「心」である。
「心」とは「知」を如何に世の為、人の為に使うかの哲学である。ここまで進化しても縦軸に示すように「欲」の世界にとどまっている人、多様性の価値観を許容するまで達する人、さらに利他に重きを置ける領域まで達する人もある。 
図に示すように、「知」と多様性をこよなく愛する人は創造力豊かな人になるであろう。しかし、そうなった途端に「欲」、権力欲、名誉欲に逆戻りする人も多い。「心」の重要性に目覚めても「欲」の世界のままの人もいる。権力欲や名誉欲に執着する僧侶も多いと聞く。

陽徳とはリターンを求める行為である。価値観では「心」の領域の大切を理解しながら「欲」(=俗世)の世界に舞い戻りする心理状態である。どうして利他の領域に突っ走らないのであろうか。それは「モノ」の世界、「欲」の世界が魅力的だからである。
しかし、そこは際限がない。ここで、マリー・キュリーに対してアインシュタインが言った言葉を紹介したい。

マリー・キュリーはすべての著名人の中で、自身が得た名声によって堕落しなかった唯一の人。科学者であっても、科学的な仕事よりも名声を追い求める人がいる。しかし、科学研究が追求するのは真理であって名声ではないということをマリー・キュリーほどはっきりと示した人は他にいない。」

この言葉の意味を噛みしめてほしい。
「心」と利他の領域に達することは難しいが、ここに究極の人生の意味があると思う。
この世界は自分に対するリターンを求めない生き方である。我々は「知」を獲得し、内的成長を遂げていかなければ動物である。そこに生きる意味があると思うが理想論であろうか。