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態(てい)の良い生き方

「態の良いものが偉くなる」「昔は技術系で武骨なやんちゃな人がトップになっていたが、今は物わかりの良い人が偉くなる」といったのは稲盛和夫氏である。これは私流に解釈すると、創造性のない人間、挑戦しない人間、調整型の人間、が偉くなっている現状に対する警鐘である。
上記の人達が人格的にダメだと言っているわけではない。いろいろな種類の人間がいてもよい。しかし、あまりにもこのような人間が多いし、そういう人間がトップになる確率が高くなっているのが問題だと思う。言葉は汚いが、調整型の人間は「他人の褌」で仕事しているようなものだ。他人のアイデアを上手く纏める能力と上司の考え方を勘案し、議論をそちらの方向に導くスキルがある人である。もちろん、このようなタイプの人も組織運営上必要である。しかし、右肩下りの時代、時代の価値観が喪失している時期には新しい考え方、新しい価値観が要求される。要するに、「創造性」が求められている。調整型の人間、さまざまな意見を纏め、態よく意見を集約する人間(語弊があるが一種の総務型の人間、general manager型の人間)に創造性を期待できるだろうか。せいぜい、現状維持、現体制の中の改良、部下たちの意思疎通ができる程度だろう。
ここで、疑問が生じると思う。調整型でも創造性が発揮できるのではないだろうかと。各種意見を聞きながら、質問を繰り返し行い、ああでもない、こうでもないと議論をする(イタレーション)中から、新しい考え方を見つけ出していくこともできると思う。このやり方をリフレクティブ・マネージメントという。反省、提案、反発、逡巡を繰り返す中から新しい考え方を創造していくやり方である。ここまで来るとかなりの「創造性」を発揮できると思うが、果たしてこのレベルまで到達できるだろうか。結論ありきで議論し、時間が来たら、そこで議論を打ち切り、結論を急ぐやり方が一般的ではないだろうか。
調整型の人間の他に、同じような人種がいる。「何もしない」人間である。いろいろなことをするから失敗する。「しない」ことが美徳になる。大企業の幹部に多いタイプである。新しいことをしようとすると反対する人間も多くなる。上司のいうことを注意深く見守り、あからさまな反対もしない。むしろ、議論の急先鋒にはならず、「大人の対応」をする。
しかしである。変化のスピードが早い時にこのような態度でグローバル時代を渡っていけるであろうか。そう青二才的に目くじら立てるなという声も聞こえてくる。
ここで、「しない」ことと、「待つ」ことは違うということを言いたい。「待つ」ことは機が熟するのを待つことで、アヒルの水掻きではないが水面下では大変な努力をしている状態である。その時に頭の中では「創造」的な考えを巡らしている。「しない」ことが大物の態度であると考えられている企業文化は日本独特のような気もする。「しない」ことは上司にとっては平穏な状態である。部下が出来すぎると、上司は自分の寝首を切られるじゃないかと不安になる。だから自分から遠ざけようと社内力学が働く。部下はそのことを知って「しない」のである。これが次第に社内の精神構造になっていく。この内向き志向からは何も生まれない。残るのは醜い社内政治だけである。こうして、高度成長の時代の日本は「成長路線」を突っ走ってきた。目標とする相手も指標も分かっていたからである。しかし、今は違う。真似すべきロールモデルも価値観も明確ではない。
話を元に戻すと、私は、「調整型」人間や「何もしない」人間がダメだというつもりはない。しかし、この様なタイプの人間がトップに立つ割合が高いことを疑問視している。アベノミックスの第三の矢、「成長戦略」が難しいのは会社の幹部に「調整型」の人間が多いこともその一因ではないだろうか。「調整型」や「しない」人間は損をしたくない人間である。他人からの評価や結果ばかり気にする人種であろう。その気質からは新しいものに挑戦することはリスクが高いことになる。新しいものに挑戦しているプロセスをしっかり評価するシステムが社会にも会社にも出来ないものだろうか。「調整」や「しない」態度からは何も生まれない。挑戦することによって新しいものが生まれる。たとえ結果は短期的に見て失敗しても、挑戦したプロセス、エネルギーは残る。人間関係や認識も深まる。こうやって新しい体制や価値観が生まれてくる。私が常に言っている、やった結果が問題ではなく、挑戦する「生き様(=プロセス)」が問われる時代を迎えている。

知謝塾  武田英次

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