ボランティアとは

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最近、江戸小噺に凝っている。福沢諭吉の「一身にして二生を経る」ではないが、新しいものへの挑戦である。ボランティアとして、老人に小噺をして笑っていただけるとこちらの方が元気を戴く。それも双方向のコミュニケーションが大切だ。

「知謝塾」は「知」への感謝の意味であるが、「謝」の意味を知るという言葉でもあることは以前に述べた。「謝」には感謝、謙虚に通じる言葉であるが、謙虚の重要性をボランティア以上に強く感じたことはなかった。未来に挑戦することはこれから得られる「未来知」への感謝の意味もある。謙虚とは本来、真理の前に自ずから頭が下がるという意味で、人に対するテクニックの意味ではないと思う。

さて、ボランティアとはなんであろうか。災害に遭遇した方、ハンデキャップ・パーソンの方、老人の方、等々に支援の手を差し伸べる行為であるが、上から目線での行為は逆に侮辱になる。むしろ、彼等に視線を合わせて、寄り添って支援をすることが求められる。
「やってあげる」という精神状態では支援を受けるほうも恩着せがましく感じる。相手に寄り添うということは、相手の精神状態を自分のこととして理解すること(同情ではない)である。「私」をできるだけ少なくして「公」に徹することが重要である。陽徳、陰徳という言葉があるが、その行為によってリターンを期待するのが陽徳で、期待しないのが陰徳である。陰徳には「私」がない。親の子に対する無償の愛である。現代の日本人は「公」より、「私」がかなり大きくなっていると言ったのは司馬遼太郎だったか? 
すべての行為が「私」を中心に据えて、自分が得すること先ず考えている。経済学者の浜矩子女史も現在の経済を「国富論」ではなく、「僕冨論」と揶揄している。上から目線にしても、相手の立場を考えているのではなく、常に、自分が中心いる態度である。自分はこんな良いことをしているということを示したいだけある。それはボランティアではない。自分を宣伝するためにボランティアをツールとして使っているだけである。謙虚の反対概念である。
今、若者に蔓延している「うまくやろう症候群」や「内向き志向」、「長いものに巻かれろ」思考にしても、「大人の対応」ではなく、自分がかわいいだけの対応である。そこにあるのは「私」だけの世界。すべては「私」の利益の為だけ。
仙人になれ、仏様になれ、と言っている訳でない。もう少し「公」の精神が必要ではないか。自分より他人の為という精神構造(ボランティア精神)が、自分中心の拝金主義にまみれた世の中に「利他性」という爽やかな風を吹かせるのではないか。そこに本当の謙虚さがある。