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「中身」の時代

私は以前、「形から入るマネージメントの限界」という一文を書いたことがある。
その中の文章を一部引用すると:

よく問題や課題を解決するために、先ず、組織を作ってアイデアや解決策を検討する場合がある。とかく、マネージャは「組織は作った、後は君たちが頑張ってくれ」と言い残し、(実はこれはマネージャ自身のガス抜きであるが)、アイデアは部下に頼むという姿勢である。
これは時と場合によっては問題解決にはなっていないことが多々ある。形から入ってうまく行く場合は、経済が右肩上がり(成長)でやる方向がほぼ決まっている時期である。その時期は「改良型」のアイデアが主で、組織を作るとさらに効率的に仕事ができる。しかし、経済が右肩下がり(不況)の時には、何をやっていいか分からない時期であり、組織(形)を作ってもあまり意味が無い。むしろ、最大の課題は「中身」を検討することである。
しかし、形から先に入ると、マネージャは自分の仕事は終わりと考えて中身を考えなくなる。そして、常に部下に言うことは、「おい、いいアイデアは出たか」である。中身が問われている時期に、形に拘っていても意味が無いことが分からない。


最近、益々、このことを強く感じる。例えば、研究の国家PJにしても、形から入るから、研究の中身よりも、研究資金の獲得にエネルギーを使う。特に最近は、国側のお金も潤沢で、使い尽くさなければならず、中身よりは形式、キャッチ・フレーズに拘る。そして、5、6年先の結果は誰も責任をとらず、ただ、報告会を開いてシャンシャンと終る。うまくいった「形」にすることが最優先になる。
多少問題でも、研究は100%うまくいくことはない。結果的に無駄に見えても後で役に立つことがあると言って終わり。これが大人の生き方だと豪語する。
話題のジェロントロジー(老年学)でも、その目標が、「寿命を延ばす」から「生活の質」を高めることに変わってきている(秋山弘子)。量から質への転換である。「形」や「量」と云った目に見えるモノではなく、「質」や「中身」といった客観的に比較できないものが重要になってきている。それは主観的なものである。論文数、GDP、寿命、等々の一見分かりやすいモノではなく、論文の中身、経済格差、生活の質といったディテールに拘った見方が必要になる。多様性の中に本質を観る。
最近、詐欺まがいな事件が世の中のメディアを騒がしているが、ほとんどが、「形」に誤魔化されている。中身を検討してない。俄か評論家が出てきてコメントし、それで終わり。そこから生まれるのは嫉妬、相手を引き摺り下ろす凄まじいエネルギー。見栄(形)ばかり気にする、他人と比較ばかりしているからそのような結果になる。比較できないものの中に本質があるのに、そこに気づかない。自分が主観的に判断すればよいのであるが、自分という軸がないから、他人の評価に左右される。他人が素晴らしいといえばそれに従い、ダメだといえばそうかなと思う。中身や本質を検討する知識や判断基準を持たない。
実は中身の議論は難しいのである。教養や常識が必要になる。そこを抜きにして考えるから表層的議論になり、分かりやすい「形」にとらわれる。何時から日本人はこのような浅薄な思考に落ちてしまったのか。出世という「形」に拘り、金という「数字」の虜になり、他人の目を気にする「比較する生き方」に自分の存在価値を見出す日本人。これを人は拝金主義という。市井の民の中にも素晴らしい人もいることも分からない。中島みゆきの歌に「地上の星」というものがあるが、その歌詞の中に、・・・名立たるものを追って、輝くものを追って、人は氷ばかり掴む・・・ という件がある。いつの時代も同じなのか。「地上の星」は見た目には輝かないかもしれないが、「中身」がある。我々もそろそろ、「中身」に拘る生き方をしたいものだ。

知謝塾 塾長
武田英次

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