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「生きる意味」を創造するとは ー「内的成長」ー

私は創造的な生き方をしたいと常日頃考えてきた。創造的生き方とは、世界で誰もやらなかった仕事や研究をしたいとか、どんな小さなことでも人が気付かなかった発見をしたいと云ったことである。

私は研究者であり、また、マネージャでもあったが、傲慢な言い方かもしれないが、頑張れば何とかこのような生き方はできるのではないかと考えていた。仕事をしている時の「心」の動きはどうか。無心に研究にいそしんで、真理の探究をしている時と、逆にこの研究が成功すれば世界的にも有名になり、会社の組織の中でも地位が上がるのではないかという俗的な欲望も持っていた時が、「心」の動きとして交互に顔を出してくる。これはごく普通の人に起こる現象であろう。

だが、後者の欲望が強くなると目的が逆転し、研究の成果が手段になり、世間的な欲望や評価が目的化する様になってくる。
こうなると研究に身が入らなくなり、「他人と比較」する生き方や「他人の眼」「世間の眼」で自分を評価する考え方になってくる。「他人の眼」とは「数字」で表わされる評価である。カネ、地位、名誉、等々の「モノ」の世界の評価である。「他人の価値観」で自分の価値を決める。「自分が何を欲しているのか」よりも、「他の人が何を欲しがっているのか」を自動的に考えてしまう「欲求」システムに我々は慣らされて生きてきた。
こうして拝金主義の価値観に染まっていく。実は、価値を創造する必要が無いから「世間の価値観」で生きる方が楽なのである。これらの欲望を仏教では煩悩と云って、その克服を目指している。この煩悩は脳科学的に言っても脳の創造性を損なうらしい。
 
これらの価値観は、「ホリエモン」や「村上ファンド」が言った、「金で出来ないものはない」や「金を儲けてなぜ悪いんですか」という言葉に代表される価値観である。創造的な生き方とは程遠い。生きる、生活するためにはカネも必要だろう、しかし、それが生きる目的なら寂しい。金儲けの目的は、贅沢したい、人からすごいと評価されたいという「欲」であり、そこから生み出されるものは「モノ」の価値観である。「自分の人生を担保するものは社会的地位やカネか!」という疑問が生じる。リーマン・ショックのころの金融資本主義の戦士たちもこの「モノ」の価値観に従っていたが末路はあまり良くなかったと思う。彼らは自分達だけでなく、世界中を不幸に陥れた。

小説家の遠藤周作が「生活と人生」という言葉で語っている内容は次のようなことである。自分は病気になり、病院のベッドに横たわっている時、同期の作家たちが活躍する姿を見て、嫉妬したり、「生活(=金)」には困ったが、「人生」が分かった気がした。その「人生」とは人間が「生きていく意味」みたいなものであろう。病気になったという人生の一種の挫折期に、彼はその後の小説に深みを与える「生きる意味」を理解したのである。

少し横道に逸れたので本題に戻ると、創造的に生きるとは創造的な仕事をすることだけでなく、むしろ難しいのは、「生きる意味」を創造することである。「他人の価値観」に合わせるのではなく、独自の価値観を創造することである。「数字」信仰、「経済成長」信仰から脱皮し、「生きる意味」を創造する生き方が問われている。「数字」的評価から落ちこぼれた人間が「うつ」になり、「生きる意味」を喪失している。自分なりの価値の尺度を持てば、「生きる意味」を獲得できるのである。偉大な人物を持ち出す必要もなく、「生きる意味」を獲得した人は、市井の民であれ、自信に溢れ、優しさと利他性に満ちている。

これからは、仕事の「成果物(=モノ)」ではなく「生き方=プロセス」が問われる時代になってきている。「何になった」「何を持っている」ではなく、困難な時期を「どう生きたか」、「どう克服したか」が問われる世の中が眼前に迫っている。独自の「生き方」を創造していくことは「他人の生き方」を真似ることではない。自分はこの生き方でよいのだと、ストーンと心に落ちる状態である。

折しもソチ・オリンピックでは「金」メタル以上に価値あるものを教えてくれた。それはアスリート達の「生き方」そのものが感動を呼ぶのであろう。彼らの競技を通じて示す「内的成長」が素晴らしいのである。弱冠10代の若者が語る言葉に、成熟した「崇高なる精神」の片鱗が垣間見える。これは、極限まで鍛えられた肉体と苦悩を克服した精神を持つものしか語れない「内的成長」の発露であろう。だから尊いのである。
「生きる意味」を創造することは創造的な仕事をすることより難しい。しかし、常に、それを意識しながら自分の生き方を模索、修正していくプロセスが重要であろう。「モノ」、「他人」、「数字(=記号)」と云った価値観を盲目的に追随している現代を創造的に生き抜くには、「外的成長」から「内的成長」への転換が必要となってきていると思う。

武田 英次(塾長)
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