読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「知謝塾」の名前について

2012年の4月から「知謝塾」は始まったのであるが、偶然思いついた「知謝」の名前について次のように私は書いている。

知謝塾の「知謝」とは「知」に感謝するという意味である。
歴史に残る「知の巨人」達の業績も、アイザック・ニュートンの言葉:「私がさらに遠くを見ることができたとしたら、それはたんに、私が巨人の肩に乗っていたからです」 (If I have been able to see further, it was only because I stood on the shoulders of giants.)が示唆するように、過去の多くの研究蓄積の上に成り立っているということである。
今は、「集合知」の上に何を創造できるかが問われている。また、この言葉には「謙虚」さが感じられる。
謙虚さは人間に少し未来を見せてくれる。


その後、ある人から、「知」に感謝するなら「謝知」ではないかと言われた。
なるほで、漢文的にはそうだと納得したが、発音とか字面から考えて「知謝」の方が良いように思えた。
「知謝」は「知者」に通じるというのもその一つであった。
そこでよくよく考えてみた。
「知謝」をそのまま、「謝」を知る、「謝」の意味を知ると漢文的に解釈するとどのような意味になるのだろうか、と。
そこで「謝」の意味を調べてみた。
辞書によると:

謝は、感謝とか謝罪という字に使われ、あやまるとも読みます。
ありがとうのことも、謝る時にも「すみません」と言ったりします。
全然意味の違う言葉なのにどちらもすみませんで会話がなりたってしまいます。
それは漢字の語源を知ると少し納得していただけるかもしれません。
謝は、言と射でできていて「言」は口を使って鍼灸用の針でさすようにズバリと言うことを表し、射るは張り詰めた矢を手から放すことを表しています。
言葉を発することにより緊張を緩めるという意味があるそうです。
ありがとうや申し訳ない気持ちを言葉で伝えることにより心の緊張を緩める効果があります。


「謝」は感謝から「謙虚」に繋がっていくと思う。
「知」に感謝してその上に新たな「知」を築いていくところまでは良いが、その後の考え方で180度違ってくる。
新たな「知」を築いていきながら、「知は力なり」という考えに陥ると、「機械論的世界観」や「知性万能主義」になり、「知」ある者は何をやっても許されると、強欲、傲慢の道を歩むことになる。

逆に、「知」を知れば知るほど「知」は無限の奥行きを持っていることが分かると「無知」である自分を認めざるを得なくなり、自ずと真理の前では頭が下がる。
これが本来の「謙虚」の意味である。
「知」に感謝しながら、その「知」に溺れことなく、さらに「知」を深めていくことで、「謝」の意味を知る。
これが「知謝」の意味であると考えるべきであろう。

別の言葉でいえば、「知」の上に「謝」があると考えても良いし、「知」と「謝」の「重ね画き」と考えても良い。
「知」一辺倒ではぎすぎすする緊張があるが、「謝」によってその緊張を和らげ、さらに奥に進むということだ。
冒頭で行述べた「謙虚さは人間に少し未来を見させてくれる」に繋がってくる。 
「叡智聡明なるとも之を守るに愚を以てす」の言葉も「知」一辺倒の危うさを示している。

多少、屁理屈先行の感もあるが、「知謝」をこの様に解釈することで「知謝塾」の目的も明確になるのではないだろうか。

 武田 英次(塾長)

chisha2