時代の最前線を疾走する83歳のフロネシスーー伊東俊太郎氏最新講演集「変容の時代―科学・自然・倫理・公共―」を読む

写真 (1)


【知は徳なり】
際限なく加速するグローバリゼーション。
そして、それとともに混迷のニヒリズムを深める一方の今日の地球社会。
その場限りの安っぽい「ファストナレッジ」が氾濫する中、社会や人間の生き方に明確な指針を与えられる本物の知性が求められている。
ベーコンの「知は力なり」以来、支配するための知、利用するための知がすべてだとわれわれは教えられてきたが、今、必要なのは、それらを越えるものだ。それは、総合知であり、実践知であり、そして何より人徳や慈悲、利他の心を備えた知に他ならない。すなわち「知は徳なり」である。
アリストテレスが「フロネシス」(賢慮)と呼んだ真の智恵。今、世界中の心ある人は誰もがそんな新たな知の登場を待望している。
昭和アカデミアの産んだ最後の碩学、比較文明学・科学史の泰斗、伊東俊太郎氏の最新講演集『変容の時代―科学・自然・倫理・公共―』には、そんな現代社会が希求する新たなフロネシスの種子が満ち溢れている。英文題は、カール・ポラニーの名著『大転換』に通じる「The Age Of Transformation」。ここには、学問を極めるだけでは終わらない伊東氏の、変革の導師としての熱い使命感が込められている。

【底抜けにアップトゥーデイトな一冊】
科学者の倫理、生命論的パラダイムへの転換、生命体としての宇宙、本能的な利他への衝動、ソーシャルジャスティス、共同体の行方、そしてミレニアム単位の文明史観など、ここで語られているのはすべて今、現在進行形でホットな論点となっている全地球的課題群、まさに今日的テーマばかりである。しかも、伊東氏はこれらテーマに関して最新の研究論文や注目のベストセラーも丹念に読み込んだ上で緻密な論考を加えている。80歳を過ぎてもなお衰えるところなき、旺盛な知的好奇心、探究心には舌を巻くばかりだ。決して過去の学術的業績に甘んじるのではなく、常に時代のフロントラインに身を置き、スリリングな社会との接点にみずからの思想の基点を求めるという、ストイックな実践知は、まさにフロネシスと呼ぶに相応しいものだが、同時に「永遠の少年」とも言われる伊東氏独特のパーソナリティと深く関わっている気がしてならない。
本著のハイライトを成すのは、「創発自己組織系としての自然」「道徳の起源」「『公共』とは何か」という3つの講演であろう。これらは3・11をはさんだ前後の数年間に行われたものであるが、簡単に言ってしまえば、21世紀知のあり方を探るシリーズであり、3・11の有無にかかわらず、その主題は驚くほどに一貫している。同時に、これらの議論はきわめてポスト3・11的なテーマだとも言えるものばかりなのだ。

【生命と非生命のあいだに】
最初の「創発自己組織系としての自然」は、デカルトの機械論的世界観を名実ともに乗り越えるための思想的試みであり、例えば近年注目されているオートポイエーシス理論や福岡伸一氏の「動的平衡」に近い議論である。しかし、それらを「宇宙の生成」と「生命の誕生」という、この四半世紀に最も動きの激しい学術分野のコンテクストでそれらの最新の研究成果を盛り込みつつ、わかり易く解説してくれるところは、さすが元祖科学インタープリターの伊東氏ならでは、である。とりわけ、宇宙の生成プロセスの中で生命が派生するために決定的な役割を果たしたのが「対称性の自発的破れ」ということであり、南部陽一郎氏がノーベル賞を受賞する直前に伊東氏がその科学史上の重要性を指摘したのは非常に意義深いことと思われる。

【人間、この道徳的な生き物】
続く「道徳の起源」は、ざっくり言えば、例のミラーニューロンの話である。従来、道徳や倫理というものは人間固有の心の働きであり、宗教や文化に起因するものと看做されていた。ところが近年の動物行動学や脳神経心理学などの発展により、人間のみならず高等動物の間でも類似した利他の心理や行動が存在することが科学的に証明されてきている。これらの研究成果から導き出されるのは、高度な人間感情に基づく道徳や倫理というものは必ずしも宗教や固有の文化的コンテクストを必須とするものではない、という新しい考え方である。このことは、「科学に基づく道徳」、つまり科学的知見に基づき、より普遍的汎用的な形でGlobal Standardな道徳や倫理を再構築することが可能かという実践的な問題につながっていく。
利他や絆が言われるポスト3・11の今、善意や慈悲のような主観感情を含む道徳や倫理の喪失、または再構築への要請は決して避けて通れない、いわば最重要な共通課題である。ミラーニューロンの発見がそのためにブレークスルーになり得るものと改めて認識させられた。

【ソーシャルジャスティスからナチュラルジャスティスまたはコズミックジャスティスへ】
そして最後が「『公共』とは何か」だが、この要諦は大人気を博したマイケル・サンデル批判である。この講演は3・11以後に行われたものである。単にサンデル単体で取り上げるのではなく、コミュニタリアニズムと言われるその思想が今、何故、登場し、世界的な脚光を浴びているのかを、正義論や公共哲学に関する歴史的変遷を丁寧におさらいしたうえで、クールに主張の偏りや限界を指摘しているのである。端的に言えば、サンデルの正義や公共に関する議論は、マルクスと同じく「人間しか出てこない」「自然に目を向けていない」ということに尽きるが、これは個人的にも非常に納得できる見解である。サンデルが流行していると言って、ただ盲目的に有り難がって受け入りするだけではない。同じフィールドに立つ学究者として対等な立場から明快な批判を加えつつ、しかも日本的な風土や自然観に基づく公共哲学の方向性、あるいは真のコミュニタリアニズム共同体主義を提案する。精緻な理論展開に舌を巻くとともに、誠に尊敬すべき智者としてのアティテゥードである。

ここで改めて思い知るのは、本物の知の凄味である。しかし、それは決して現実離れした象牙の塔の住人では決してない。常に同時代の社会や世相、そして人々の切迫する苦悩やライブな息遣いを五体に感じながら、それらをわが事として引き受ける心構えとともにあるもの、今となっては長老知の指折りトップ3には入るであろう、伊東氏は身を持って、そのことを教えてくれるのである。