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伊東俊太郎先生との対話、そして思索 其の壱

知謝塾と池袋コミュニティカレッジのコラボによる公開講座
その第三回は、年の瀬も押し迫った12月28日、『昭和アカデミアが産んだ最後の叡知』、伊東俊太郎先生の講演会を開催する運びとなった。
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先日、伊東先生と最終の打ち合わせをする為に、JR中央線に乗った。某沿線駅で降りて、この不世出のマエストロにお会いするのは何度目だろうかと思い返しながら、いつもお馴染みの喫茶店へ。
先月末、奇しくも三島由紀夫の命日と同じ日に堤清二さんが亡くなった。これを当たり前のことと思ってはいけないとつくづく感じ入る。

待ち合わせしたのは夕刻17時。外はすっかり暗くなっていたので、少し心配になってきたが、定刻ちょうどに登場した伊東先生はマスクとマフラーを付けての重装備。まったく「絵になる」先生だ。
「この歳になると、普通の風邪にも重々注意しないとね」と。御歳83歳。相変わらずお元気だが、健康管理には人一倍配慮されているようだ。

まずは今回の公開講座リーフレットをお渡しして、改めて一から講演会の趣旨を説明させていただく。
「知謝塾がめざしているのは、企業でも大学でも得られない知、在野の知、あるいは非公認の実践知、活きるための総合知といったところです」
「ほお、それは大切な視点です。さすが武田さんだ」と、一つひとつ、オーバーリアクション気味に感心してくださる。まことに心やさしい先生だ。
武田塾長の、伊東先生に対する推薦文についても、一通り目を通されて、「過褒ではあるが・・・」とおっしゃりながらも、まんざらではない様子である。

もとより、「人生は楽しむもの、学問の喜びについて」という講演タイトルは、数ヶ月前にお会いした際、伊東先生ご自身から頂戴したものである。しかしながら、改めて「今回の講演会では、ぜひとも伊東先生の人生観を語っていただきたい」とお願いした。

先生がご自身のことについて語るのをあまり好まれない、というのは承知しているつもりだったが、麗澤大学出版会から出された「伊東俊太郎著作集」の第11巻には、「我が師・我が友・我が人生」と題した自伝的記述がある。
それに、現役時代はストイックに自分を語るのを拒んでいた人でも、老年期に入ると、概して人が変わったように自分のことを饒舌に語るようになるものだ。いかに知的に潔癖な伊東先生でも、ご自身の人生を語ってほしいと、後輩に請われて悪い気はしないのではないか、と考えていたのは確かである。
「是非、学問一途に生きてきた先生の人生を」という自分の言葉に、先生が少なからず困惑した表情を浮かべていたのを見逃していたのかもしれない。

私は、さらに「講演の内容は、自分がまとめて、ブログやフェイスブックに掲載させていただきます」と続けた。
自分はまったく悪気はない。特別な意図はない。伊東先生の思想や存在を世に広める宣教師のつもりで言った善意の科白である。しかも、「もちろん、事前に内容をチェックしてもらいます」と言い加えたはずである。

「それは、不特定多数の誰でも閲覧することができるのかね」
「そうですね、見ようと思えば誰でも見られます」

その瞬間、先生の表情が変わった。
「それは困る、それはダメだ!」と。
先ほどまでの柔和な表情が一変し、激情に駆られたハイトーンで一気にまくし立てられるので、自分の方が面を喰らった。

「この間も、僕の講演を撮影した映像をテレビで流したいというので断ったんだ。僕の話というのは、あくまでも会場に来てくれている人だけに向けたもので、不特定多数に対して、となれば話が違う。ある発言だけを切り取って批判されることもあるだろう。だから、不特定多数に流れる場合は物凄く慎重にしているのだ。
そのテレビで流すというのも、講演が終わった後から聞かされたことなのだ。だから僕はすごく憤慨して怒ったのだ、『そんな話は聞いていない。聞いていたら断っていた』とね。ところが相手はキョトンとしている。どうやら、彼にはどうして自分がそこまで固辞するのかが理解できないようだった」

恐らくテレビではなく、インターネットでの動画配信なのだろう。閲覧する人は極々限られる。ニッチなロングテールの世界である。相手というのは、制作スタッフのディレクター辺りだろうか。何故、そこまで?と思うのも無理はない。しかし、先生にしてみれば、テレビもインターネットも同じなのだ。誰でも見られるというのだから。

「あなたは事前に言ってくれたから、まだいいのだが、今回の講演ももし不特定多数に対して流すというのであれば、とてもじゃないが、受けられない。この話はなかったことにしてもらいたい!」

語るほどに先生のエモーションが激していくのが手に取るようにわかった。すぐにひとまずは黙って聞くしかない、と観念した。何か根本的なところで誤解されている気もしたが、どれほどマイナーな個人のブログだとしても、可能性としては不特定多数に流れるのだから、先生のご指摘は確かに間違いない。自分自身、当たり前のこととして安易に考えていた。配慮を欠いていたのは弁明できない事実だ。

「大体、僕は自分の人生なんか語りたくないのだ。そういうのを喜んでやる人も多いだろう。今の時代は特にそうだ。でも僕は違う。僕にとっては今、自分が取り組んでいる研究が最優先なのだ。今も研究で毎日、忙しい。研究以外のことをやっている余裕はないのだ。
そもそも他人に自分の人生を語って一体、何がわかるというのだろう?自分の人生は自分にしかわからないものだ。人生は自分で掴むしかないものなのだ。要するに『知というのはそんな安易なものじゃない』ということだ!」

こう断じて一段落が付いた感じだった。しかし、私としては今回の講演をキャンセルするわけにはいかない。とにかく、「申し訳ありません。講演の内容をインターネットに掲載するという話は撤回いたします」とお詫びした。

「僕はあくまでも会場に来ている人に語りかけたいのだ。だから、その場に居ない人の目に触れるのは困る。人数は少なくても構わない。僕は講演も常に『一期一会』の思いでやっているのだ」と。

やはり素晴らしい先生だ。
そして、自分の本心を改めて伝えた。
「先ほどおっしゃった『知というのはそんな安易なものじゃない』という、まさしくそのことを今回の講演ではお話しいただきたいのです。また知謝塾がテーマとしている、『大学や企業では得られない第三の知』というのも、正にそのことではないかという気がします」と。

その後は、再び限りなく柔和な表情に戻られ、打ち合わせは順調に進んだ。そして、最後はご機嫌でお別れすることができたと思う。
しかし自分自身は、ここで伊東先生が露わにされた怒りについて、しばらく考え込まざるを得なかった。その怒りは決して自分個人に向けられたものではなかったと思う。
むしろ、「現代の知を取り巻く状況」全体に対する怒りに違いない。ネットで一発検索すれば、世界中の、あるいは人類史上のあらゆる知を獲得できるかのごとき浅薄な思い込みが蔓延する、この世相。端的に言えば、「知の世俗化」だ。
3.11で露呈した、専門知に対する根深い不信の広がりと、このことは無関係ではないはずである。

これに対して、「本物の知はそんな安易なものではない」という怒りの一語は、今日の「知」の欠陥を抉る最も本質的な問い質しと言える。
しかし同時に、かくも際限ない情報爆発、情報洪水の中で溢れかえる知の中から、いかにしても本物だけを拾い上げることができるのか。その尺度、基準は一体、どこにあるのか。

「世の知に真贋、世の文化に質的上下がある」と言えば、生まれた時から「この世にあるのは個人の好き嫌いだけ」という価値相対主義に馴致した今日の若者は面食らうのではないだろうか。しかも、そんな知の世俗化・大衆化という過去2世紀余にわたるトレンドを、インターネットに始まる今日のIT革命は決定づけたようにさえ思える。

「本物の知はそんな安易なものではない」と言い放つ伊東先生の至言に、私自身、どこか郷愁に近いような格別な感慨を覚えるのも、その真実がすでに失われたものだという諦観からなのかもしれない。

続く