群個の時代

戦国武将 真田昌幸の言葉
「軍勢を一つの固まりと思うな。
一人一人が生きて、一人一人が思いを持っておる。
それをゆめゆめ忘れるな!」が話題を集めている。

何故だろうか。
今はマスといわれ、
十羽一絡げにされた人々(群衆)の一人一人にも光が当たる時代になってきた。
それぞれに個性や意見があり、
群衆に埋もれた「マイノリティ」を無視できなくなってきている。
今回の米国大統領戦においても
「マイノリティの逆襲」がトランプを勝たせたのだと思う。
従来のからの価値観やメディアの古い慣習が最後まで
クリントン優勢の主張を続けたのだろう。
今まで無視されて臍を噛んでいたそれぞれの分野、領域の
マイノリティが集まれば力を持つようになる。
これを群衆ではなく「群個」と呼びたい。正にロングテールである。

また、技術的にも
IoT(モノのインターネット)、AI(人工知能)、トレーサビリティ等が
大いに発展している。
これは人間も含め、全てのモノにタグが着けられる状態である。
もちろんマイノリティなモノもチェックできる。
大きなマクロな動きを表面的に見るのではなく、
内部に入り込み個々の動きを見なければ
本質的な姿や問題点が浮かび上がってこない時代であり、
そのテクニカルなシステムはかなり出来上がってきている。
平均値的なデータや今迄の慣習的な分析では本質が見えてこない。
過去の細かいデータ、現在起こっている個々の内部データを
細かく学習・分析し、結論を出す時代である。
まさにAIの深層学習である。
 
ピケティが言った「格差」の問題も
GDPのような平均値的な値では見えてこない。
視点を変える、
新しい問題意識を持つ、
マイノリティの個々の意見を良く調べる、
このような学習態度から始めて見えてくるものである。

我々はマジョリティの意見を単純に信じるのではなく、
むしろ、マイノリティといわれる人達の意見に謙虚に耳を傾け、
その真意、何が問題なのかを真摯に検討する必要がある。
そこに物事の本質が宿っていると思った方がよい。
マイノリティに「創造性」の源泉が宿るという考え方だ。

社会の問題、技術の問題を理解し解決するためには、
今まで、無視されていた人達や技術に光を当て、
自分たちの思考の限界を打破しなければならない。
ボスの政治、丼勘定の決定、長いものに巻かれる式の組織運営、
権威の鵜呑み等々、今までのマジョリティ、平均値的思考では
対処できない時代が到来している。

我々はどうすればよいのだろうか。
 
冒頭で述べた真田昌幸の言葉は小さな組織だけに通用するものではない。
むしろ大きな組織、国にこそ通用する考え方だと思う。
技術の進歩と相まって我々は従来からの考え方、視点、価値観を
180度変える時期に来ているようだ。

それが「群個」の時代である。

産学官連携

最近、産学連携の動きが盛んである。
何故だろうか。
ここでは企業研究者の立場で論を進める。
今、エレクトロニクス企業の研究者は研究のコアを失っている気がする。
1970年代後半から世界の企業(勿論、日本企業も)は半導体一色に染まっていた。
もちろん半導体を用いたコンピューター事業も盛んであったが、主にハードでは一時米国抜いたと思うこともあった。
しかし、2000年に入り、半導体が「産業の米」でなくなると企業の研究は軸を失い、何をやっていいのか暗中模索の状態が続いている。
さらに2010年代になると、第三次AIブームが起こり、草木もなびくように乗り遅れまいと、産学官挙げて国のプロジェクトをぶち上げた。
古くは第五世代コンピュータナノテクノロジーPJと同じ動きである。
果たして上手く行くのだろうか。
正に「形から入るマネージメントの限界」の恐れがある。
マネージメントの視点では組織を作り、お金も用意した、さあ、これからは研究者個人の責任ですよと云わんばかりである。
これは、今まで幾度も歩いてきた道である。
常に、マネージャは失敗しても責任を取らない。
上手く行ったら「形」を作った人の成果になる。
そしていつの間にか、マネージャーはいなくなる。
何回同じ失敗を繰り返すのか。
また、ここにきて産学連携の動きがゾンビのように起こっている。
これも、マネージメントサイドが仕組んだ「誤魔化し」だろう。
研究テーマの軸を企業では作れないので、有名大学(東大、京大等)の権威を借りて、何かやっている雰囲気を醸し出す。
企業の社長、会長が学長と握手している写真を撮ってばら撒けば両者にとって悪くはない。
教授も研究費が貰えるから満足である。
二流の研究者はそのような鳴り物入りで起こった組織で働くことを誇りに思うかもしれない。
しかし、一流、一流を目指す研究者はそれで満足するだろうか。
大学の中に研究室を設け、教授の指導のもとに学生たちと研究を進めることに甘んじることができるか。
企業の一流の研究者は研究テーマを自分で考えることに生きがいや喜びを感じる生き物である。
遅れているのだから、まず、先生から学ぶことに意義があるという意見もある。
外に組織を作ってしまうと研究者のモチベーションはズタズタになる。
将来、大学に出たいと思う研究者はコネクションを作る上で絶好のチャンスであろう。
研究者の人数を減らすためには良い施策である。
しかし、それでよいのだろうか・・・・・。
苦しくても企業の研究者は自分の研究テーマを自分で見出す努力が必要であり、それができなければ、研究は大学に任せ、大学の成果を事業化する「開発者」に徹した方が上手く行くだろうか。
できれば、日本の企業は自分の組織内に指導者として一流の学者、研究者を招へいし、自分なりの研究グループを作り、研究者に考えさせる雰囲気を作ることが重要であると思う。
今は企業の研究者にとって正念場である。
このテーマはいろいろの角度から見る必要がある。
若い研究者の意見を大いにインプットして欲しい。

人の育成とは

人の育成の重要性は常に指摘されるがこれが意外に難しい。
順を追って説明しよう。

先ず、教師やコーチの場合は人を育てることが仕事であり、素晴らしい成果を挙げた生徒が育ったり、偉大な結果を残す選手が現われたりすると名伯楽として評価されるのであまり問題ない。
しかし、ここで注意しなければならないことは、「教師の最も純粋な栄光は、自分に続く弟子を育てることではなく、自分を越える賢人を育てることである」(サンチャゴ・ラモン・イ・カハール)という考え方を熟慮すべきことである。 
「自分を越える人材を育てられるか」は育成のスキル以上に、人間の「嫉妬」という煩悩の領域に入るのでなかなか難しいが、これを乗り越えていかねば本当の教師にはならない。
 
次に、組織における上司と部下の関係ではどうか。
上司は部下の成長を心から喜び、育てられるだろうか。
部下が上司を越えるような存在になった場合、それに耐えられるか、この問題は非常に重要な心の問題を孕んでいる。
上記と同じ「嫉妬」の感情である。
ある上司においては、育てない、指導しない、さらに自分よりさらに上の上司に、部下の悪口をいうという妄動に出る場合だってある。
「自力で這い上がってこい」という態のよい、自分を納得させる論理を展開して・・。
こうなると嫉妬の亡者になって心を焼き尽くしてしまう。
「勝った、負けた」の世界である。
異常な競争心や出世主義が生んだ悲しい結末である。
これらは稀なケースではなく、多かれ少なかれ、企業においてはよくあることと思った方がよい。
 
なぜ、嫉妬の刃で人間にとって大切な「人を助ける」という使命を放棄するのか。
それは、「出世」という単一価値、狭い価値観に拘っているからである。
自分より優れた部下を育てたという事実は誰かが見ているものである。
取り立てて褒める人もいないかもしれない。 

しかし、それが「陰徳」として長い人生では役に立つものであり、むしろ誰からも尊敬される存在になるだろう。
「嫉妬」という煩悩でたとえ「出世」出来たとしても、羨ましがられたとしても、人間としては失格ではないだろうか。

人間の評価は単純ではない。
輝かしい経歴「外的成長」も重要だろうが、もっと大切なものは人間としての「徳」の輝きである。
「資本主義の限界」「ポスト資本主義」「アメリカニズムの終焉」という言葉を最近よく耳にする。
異常な拝金主義の嵐もそろそろ収まり掛けているが、これらの価値観に通底しているのは目に見える世界であり、測定できる(スケーリング)ものである。
金、地位、名誉、等々。
もっと大切なものは見えない世界にある人間の「徳」に裏打ちされた内的成長ではないだろか。
若い時は「勝った、負けた」の世界で、勝った時の誇らしげな気持ちは蜜の味であり、のめり込んでいくのである。

しかし、人生は長い、且つ単一の価値観だけでは処理できないほど複雑である。
この複雑性(=多様性)を考えた場合、勝ち負けの世界はないといってもよい。
簡単な解はないが、複雑性の「意味」を噛みしめながら生きていくのが人生だろう。

努力について

2016年の本屋大賞をもらった宮下奈都氏の小説『羊と鋼の森』の中に次の様な文章が目に留まった。

「努力していると思ってする努力は、元を取ろうとするから小さく収まってしまう。自分の頭で考える範囲内で回収しようとするから、努力は努力のままなのだ。それを努力と思わずにできるから、想像を越えて可能性が広がっていくんだと思う。」

よく聞く言葉に「これだけ努力したのだから果報は寝て待て」、「人一倍努力したのだから自信を持って臨みなさい」、「努力は嘘をつかない」「努力に勝る天才なし」とか、挙げれば切りがない。
努力はもちろん重要である。しかし、「努力に見合うだけの結果が欲しい」という考え方に何か功利的、打算的な意図が見え隠れしないだろうか。

この考えを進めるとこれこれの結果が欲しいからこれくらいの努力をするという本末転倒の考え方に行きつく。だから、上記の小説のようにその結果も小さく収まるのである。結果が見えなければ努力しないという考えである。人間が考える結果なんかは所詮小さいのである。結果を意識せずに努力していると思わぬ結果が現われてくるのが現実ではないだろうか。

リターンを意識しない、さらにはそれを求めない生き方の重要性を上記の小説は暗示している。研究におけるセレンディピティもこのことを示唆している。
以前、私は『陰徳と陽徳』というタイトルで文章を書いたことがある。その中で次のように述べている。
「陰徳とはリターン(見返り)を期待しないで善行(徳を積む)を行うやり方である。最初から論理的に考えた結論より、偶然出くわした発見を論理的に詰めていく時、大きな成果につながることが多いと感じている。これをセレンディピィティという。人間の論理的思考には限界があり、偶然性や直観力が重要な意味を持つことを示していると思う。素晴らしい研究成果を挙げた人の話を聞くと、研究している時は“ゾーン”に入った状態で、他の研究者と自分を比較したり、嫉妬する感情はなく無心に取り組み、ただその研究が面白いからやっている状態が続くらしい。要するに、その研究が成功した暁には有名になるとか、出世するとか、お金が儲かるといったリターンを期待せずに無心になることが大切であること暗示している。」
また、『怒りのぶどう』で有名なノーベル賞作家スタインベックは「天才とは、蝶を追っていつの間にか山頂に登っている少年である」という。

我々は兎角、世俗的欲求を最初に考えがちであるが、それが如何に空しいものであるかを悟らなければならない。無心に努力していると想像もつかない高みに達する。これは理想的な境地であるが深く考えてもよいテーマであると思う。

吉田沙保里の銀メダルは何を意味するのか -バランスとは-

リオ・オリンピックは日本中を熱狂の海に巻き込み、感動の涙を流した人も多いと思う。

私もその一人であるが、その中で特に印象に残っているのがレスリングの吉田沙保里の四連覇達成ならず、「銀メダル」に終わったシーンである。皆さんはこの結果をどのように感じたであろうか。
彼女自身、「なぜ私だけが金メダルを取れないのだ」「私の何が悪かったのか」「伊調馨は四連覇したではないか」「人一倍努力したではないか」という恨み節が聞こえてくるようだ。世間も同じ考えを持っていると思う。 

私は少し違う考えをしている。
確かに彼女自身にとっても、日本人にとっても金を取れなかったことや四連覇を達成できなかったことは極めて残念である。
しかし、何時かは必ず破れる時が来る。この真理はどんな達人、名人でも同じである。偶々、今回のオリンピックがその時であったということであろう。
しかし、これ以上に重要な真理(?)が隠されている気がする。金メダルを取ることを100%当然視されていた人が銀メダルに終わることは本人にとっても悲劇(?)である。
人生に於ける「失敗」「挫折」と思うだろう。しかし、このことは更なる大きな「成功」への一歩かもしれない。

何故か?

米国の教育者、ジョン・F・ディマティーニは:
「物事はすべて二つの相対するもので補完的に成りたっている。その二つは完全にバランスが取れており、本来は中和されたニュートラルなもの」「人生のどんな局面においても、持ち上げられることなしに落とされることはなく、落とされることなしに持ち上げられることもない。ポジティブとネガティブ、良いと悪い、支援と試練、平和と争い。すべては二つ一組でやっている。そしてそれら二つは同時に存在し、完璧なバランスを保っている。宇宙を構成しているのは、そのバランスなんだ」と、述べている。

今回、金メダルを取れなかった(=試練)ことは同時に良いことが既に始まっていること意味する。
このバランスの意味を深く理解すれば、たぶん「金メダル」以上の成果を今後、彼女にもたらすだろう。
それは偉大なる指導者への道かもしれない。
何かが欠けなければ新しいものは生まれない。
吉田沙保里の例はそのことを意味していると思う。
起こった事の表層的な現象で一喜一憂するのではなく、そのことの深い意味を考えて人生を送ることが必要である。
彼女のこれからに期待したい。

また、バランス(=中庸)が崩れるときに問題が起こるのも真理である。
悪いことだけではない。
南部陽一郎素粒子自発的対称性の破れ、小林・益川の物質・反物質の不整合にしても宇宙のアンバランスを予言したものである。
このアンバランスからビッグバンを始めとして何か新しいもの、創造性が生まれてくることは枚挙に暇がない。

吉田沙保里の「四連覇ならず」から論を進めてきたが、要は起こった現象の背後にある宇宙の真理、人生の意味を深く洞察することにより、豊饒で味わい深い人生が遅れるのではないだろうか。

「圧倒的悲劇を前にして小説は何ができるのか -マルチの視点-」

2011年。3.11の東日本大震災の後、表題の言葉は小説家達が発した言葉である。
小説家の想像を絶する惨事を前にして小説は再生や希望、あるいは癒しを提供できるのかという意味である。

当初、私は小説のようなものが不条理な悲劇を被った人達を救えるとは到底思えなかった。今でも「救う」という言葉には抵抗があるが、再生していく一つの力になるのではないかと思っている。
その惨劇が起こった「意味」を考える。過去の行動を反芻してウジウジ(?)反省するのではなく、むしろ未来に対する「意味」を創造することが大切になる。そのヒントを提供するのが小説の想像力ではないだろうか。
「なぜ私だけに起こったのか」と繰り返し、繰り返し過去を振り返り、出口のない後悔にはまり込むのではなく、未来に対する「意味」を考える多角的視点。このマルチの視点の提供こそ小説の役割であろう。今まで考えてきた単一の価値観ではなく、新しい視点、悲劇が起こった自分なりの「意味」が腑に落ちた時、未来への希望が湧いてくる。

もちろん、肉体労働のボランティア、エンターテインメントも一時的に悲しみを癒してくれるだろう。しかし、本当の心の再生の為には悲劇の「意味」、これから生きていく「意味」を納得した時、体の内側からエネルギーが湧いてくる。これを考えるヒントがマルチの視点だと思う。身に起きた悲劇の感傷に浸るだけでなく、むしろその悲劇が契機になって生まれた新しい人生を生きる精神的糧が「意味」である。中国文学の泰斗の吉川幸次郎が次のようなことを云っている。
唐詩杜甫が代表)は絶望や悲哀が中心であるが、宗詩は唐詩と異なり、「多角的な巨視による悲哀の止揚」と述べている。人生に対する大きな視点を持ち、 悲哀を乗り越えるのだという意味である。宗詩の代表格は蘇軾(東坡)である。多面的なものの見方が人生の絶望さえも乗り越えることが出来る(『宗詩概説』)。絶望や悲哀の情緒的「感傷の美」に浸るのではなく、多面的な見方の大切さを示している。
また、米国の若手の社会学者、エイミー・L・チュアは 「世界をリードする最強の条件は『寛容性』」である」と云う。寛容性とは多様性を認めることから生まれてくる。
IBMフェローの浅川智恵子氏は、本人も障害者である経験から、障害者がイノベーションの源泉・触媒になるという視点を指摘している。障害者の持つ創造性への寄与を力説する。

現在は「多様性(ダイバーシティ)の時代」 とも云われている。
他人の価値観の尊重、多くの意見の交流から新しい考え方が生まれる。教条主義的な価値観の押しつけからは何も生まれない。我々人間はそれほど賢くないのである。
「無知(仏教では無明)」であることを悟ることから先が観えてくる。
般若心経の言葉に「無無明尽」という言葉がある。意味は「無明は尽きることがない」ということらしい。無明(=無知)だから悩みも尽きることがないと。無知だから、起きた現象の背後にある知恵が分からない。これには宇宙の摂理やsomething greatの意図も含まれる。

「圧倒的悲劇の現実を前に虚構の小説が何の役に立つのだ!」という意見もあるだろう。
見えるものだけの世界の論理だけではこの世の不条理は解けない。逆に、虚構の世界の鏡に現実に起こった悲劇を映すことにより、現実の世界の矛盾や不条理の「意味」が見えてくる可能性がある。見えないけれど観ようとする努力の一助が「多面的な思索」である。
それを提供するのが小説ではないだろうか。虚構の世界が実は本当の世界であるというパラドックスを我々は真剣に考えてみる価値がありそうだ。


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陽徳と陰徳

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陽徳と陰徳という言葉がある。
前者は見返りを期待して善行を行うこと(徳を積む)で後者は見返りを期待しないで徳を積むことを意味する。母の自分の子供に対する愛や慈しみは陰徳であり、菩薩愛ともいう。
最近の知謝塾(2015年5月30日)で(株)メンバーズ執行役の原裕氏のCSVの話を拝聴した。CSVはCreating Shared Valueの略で日本語では共通価値の創造と訳すようだ。簡単に言えば顧客やステークホルダーの為に価値共有や善行を積みながら、そしてそれが会社の利益につながるという会社のヴィジョンである。
このCSVマイケル・E・ポーターが提唱している競争力を高める企業戦略の考え方で、いかにもアメリカ的で論理的にみえる。あくまで会社の会計指標ROI(Return on Investment)につながる経営戦略である。
一方、同じような言葉にCSRという言葉がある。これはCorporate Social Responsibility の略で、企業の社会的責任と訳されている。会社の利益の一定額を社会に還元する考え方で、社会貢献活動(フィランソロピー)、慈善活動、メセナのことを云う。リターンを期待しないところは陰徳に繋がる考え方と思う。企業にとっては利益を出すことが最終目標であるのでどちらが正しいというものでもないが、CSR的行動に親しみを感じる。東洋的な心情なのであろうか。

研究者としての経験からいうと、最初から論理的に考えた結論より、偶然出くわした発見を論理的に詰めていく時、大きな成果につながることが多いと感じている。これをセレンディピィティという。人間の論理的思考には限界があり、偶然性や直観力が重要な意味を持つことを示していると思う。素晴らしい研究成果を挙げた人の話を聞くと、研究している時は「ゾーン」に入った状態で、他の研究者と自分を比較したり、嫉妬したりする感情はなく無心に取り組み、ただその研究が面白いからやっている状態が続くらしい。要するに、その研究が成功した暁には有名になるとか、出世するとか、お金が儲かるといったリターンを期待せずに無心になることが大切であることを暗示している。
最初から営為の結果(リターン)を求めても、そう簡単にいかないのが世の常である。むしろ、逆の結果が現われてくることもある。
人間誰しも欲がある。欲があるから、他人より偉くなりたい、負けたくない気持ちがバネになっていい仕事をする人も多々ある。いい仕事をして社会的に偉くなってもそこから権力欲に目覚め、晩節を汚す人もある。最近の研究者の背信の問題も根底ではこのような精神状態に起因する。

欲には際限がない。若いうちは欲の塊であり、「モノ」に憧れる。「何を持っている」「何に成った」と自慢したくなる。その後、「モノ」の虚しさも感じ始め、「知」に憧れる。「モノ」を背後から支えているのが「知」である。知識、世の中を支配している「知」、教養等に価値を置くようになる。上の図に示すように人間の進化とは「モノ」から「知」そして「心」である。
「心」とは「知」を如何に世の為、人の為に使うかの哲学である。ここまで進化しても縦軸に示すように「欲」の世界にとどまっている人、多様性の価値観を許容するまで達する人、さらに利他に重きを置ける領域まで達する人もある。 
図に示すように、「知」と多様性をこよなく愛する人は創造力豊かな人になるであろう。しかし、そうなった途端に「欲」、権力欲、名誉欲に逆戻りする人も多い。「心」の重要性に目覚めても「欲」の世界のままの人もいる。権力欲や名誉欲に執着する僧侶も多いと聞く。

陽徳とはリターンを求める行為である。価値観では「心」の領域の大切を理解しながら「欲」(=俗世)の世界に舞い戻りする心理状態である。どうして利他の領域に突っ走らないのであろうか。それは「モノ」の世界、「欲」の世界が魅力的だからである。
しかし、そこは際限がない。ここで、マリー・キュリーに対してアインシュタインが言った言葉を紹介したい。

マリー・キュリーはすべての著名人の中で、自身が得た名声によって堕落しなかった唯一の人。科学者であっても、科学的な仕事よりも名声を追い求める人がいる。しかし、科学研究が追求するのは真理であって名声ではないということをマリー・キュリーほどはっきりと示した人は他にいない。」

この言葉の意味を噛みしめてほしい。
「心」と利他の領域に達することは難しいが、ここに究極の人生の意味があると思う。
この世界は自分に対するリターンを求めない生き方である。我々は「知」を獲得し、内的成長を遂げていかなければ動物である。そこに生きる意味があると思うが理想論であろうか。