人の育成とは

人の育成の重要性は常に指摘されるがこれが意外に難しい。
順を追って説明しよう。

先ず、教師やコーチの場合は人を育てることが仕事であり、素晴らしい成果を挙げた生徒が育ったり、偉大な結果を残す選手が現われたりすると名伯楽として評価されるのであまり問題ない。
しかし、ここで注意しなければならないことは、「教師の最も純粋な栄光は、自分に続く弟子を育てることではなく、自分を越える賢人を育てることである」(サンチャゴ・ラモン・イ・カハール)という考え方を熟慮すべきことである。 
「自分を越える人材を育てられるか」は育成のスキル以上に、人間の「嫉妬」という煩悩の領域に入るのでなかなか難しいが、これを乗り越えていかねば本当の教師にはならない。
 
次に、組織における上司と部下の関係ではどうか。
上司は部下の成長を心から喜び、育てられるだろうか。
部下が上司を越えるような存在になった場合、それに耐えられるか、この問題は非常に重要な心の問題を孕んでいる。
上記と同じ「嫉妬」の感情である。
ある上司においては、育てない、指導しない、さらに自分よりさらに上の上司に、部下の悪口をいうという妄動に出る場合だってある。
「自力で這い上がってこい」という態のよい、自分を納得させる論理を展開して・・。
こうなると嫉妬の亡者になって心を焼き尽くしてしまう。
「勝った、負けた」の世界である。
異常な競争心や出世主義が生んだ悲しい結末である。
これらは稀なケースではなく、多かれ少なかれ、企業においてはよくあることと思った方がよい。
 
なぜ、嫉妬の刃で人間にとって大切な「人を助ける」という使命を放棄するのか。
それは、「出世」という単一価値、狭い価値観に拘っているからである。
自分より優れた部下を育てたという事実は誰かが見ているものである。
取り立てて褒める人もいないかもしれない。 

しかし、それが「陰徳」として長い人生では役に立つものであり、むしろ誰からも尊敬される存在になるだろう。
「嫉妬」という煩悩でたとえ「出世」出来たとしても、羨ましがられたとしても、人間としては失格ではないだろうか。

人間の評価は単純ではない。
輝かしい経歴「外的成長」も重要だろうが、もっと大切なものは人間としての「徳」の輝きである。
「資本主義の限界」「ポスト資本主義」「アメリカニズムの終焉」という言葉を最近よく耳にする。
異常な拝金主義の嵐もそろそろ収まり掛けているが、これらの価値観に通底しているのは目に見える世界であり、測定できる(スケーリング)ものである。
金、地位、名誉、等々。
もっと大切なものは見えない世界にある人間の「徳」に裏打ちされた内的成長ではないだろか。
若い時は「勝った、負けた」の世界で、勝った時の誇らしげな気持ちは蜜の味であり、のめり込んでいくのである。

しかし、人生は長い、且つ単一の価値観だけでは処理できないほど複雑である。
この複雑性(=多様性)を考えた場合、勝ち負けの世界はないといってもよい。
簡単な解はないが、複雑性の「意味」を噛みしめながら生きていくのが人生だろう。

努力について

2016年の本屋大賞をもらった宮下奈都氏の小説『羊と鋼の森』の中に次の様な文章が目に留まった。

「努力していると思ってする努力は、元を取ろうとするから小さく収まってしまう。自分の頭で考える範囲内で回収しようとするから、努力は努力のままなのだ。それを努力と思わずにできるから、想像を越えて可能性が広がっていくんだと思う。」

よく聞く言葉に「これだけ努力したのだから果報は寝て待て」、「人一倍努力したのだから自信を持って臨みなさい」、「努力は嘘をつかない」「努力に勝る天才なし」とか、挙げれば切りがない。
努力はもちろん重要である。しかし、「努力に見合うだけの結果が欲しい」という考え方に何か功利的、打算的な意図が見え隠れしないだろうか。

この考えを進めるとこれこれの結果が欲しいからこれくらいの努力をするという本末転倒の考え方に行きつく。だから、上記の小説のようにその結果も小さく収まるのである。結果が見えなければ努力しないという考えである。人間が考える結果なんかは所詮小さいのである。結果を意識せずに努力していると思わぬ結果が現われてくるのが現実ではないだろうか。

リターンを意識しない、さらにはそれを求めない生き方の重要性を上記の小説は暗示している。研究におけるセレンディピティもこのことを示唆している。
以前、私は『陰徳と陽徳』というタイトルで文章を書いたことがある。その中で次のように述べている。
「陰徳とはリターン(見返り)を期待しないで善行(徳を積む)を行うやり方である。最初から論理的に考えた結論より、偶然出くわした発見を論理的に詰めていく時、大きな成果につながることが多いと感じている。これをセレンディピィティという。人間の論理的思考には限界があり、偶然性や直観力が重要な意味を持つことを示していると思う。素晴らしい研究成果を挙げた人の話を聞くと、研究している時は“ゾーン”に入った状態で、他の研究者と自分を比較したり、嫉妬する感情はなく無心に取り組み、ただその研究が面白いからやっている状態が続くらしい。要するに、その研究が成功した暁には有名になるとか、出世するとか、お金が儲かるといったリターンを期待せずに無心になることが大切であること暗示している。」
また、『怒りのぶどう』で有名なノーベル賞作家スタインベックは「天才とは、蝶を追っていつの間にか山頂に登っている少年である」という。

我々は兎角、世俗的欲求を最初に考えがちであるが、それが如何に空しいものであるかを悟らなければならない。無心に努力していると想像もつかない高みに達する。これは理想的な境地であるが深く考えてもよいテーマであると思う。

吉田沙保里の銀メダルは何を意味するのか -バランスとは-

リオ・オリンピックは日本中を熱狂の海に巻き込み、感動の涙を流した人も多いと思う。

私もその一人であるが、その中で特に印象に残っているのがレスリングの吉田沙保里の四連覇達成ならず、「銀メダル」に終わったシーンである。皆さんはこの結果をどのように感じたであろうか。
彼女自身、「なぜ私だけが金メダルを取れないのだ」「私の何が悪かったのか」「伊調馨は四連覇したではないか」「人一倍努力したではないか」という恨み節が聞こえてくるようだ。世間も同じ考えを持っていると思う。 

私は少し違う考えをしている。
確かに彼女自身にとっても、日本人にとっても金を取れなかったことや四連覇を達成できなかったことは極めて残念である。
しかし、何時かは必ず破れる時が来る。この真理はどんな達人、名人でも同じである。偶々、今回のオリンピックがその時であったということであろう。
しかし、これ以上に重要な真理(?)が隠されている気がする。金メダルを取ることを100%当然視されていた人が銀メダルに終わることは本人にとっても悲劇(?)である。
人生に於ける「失敗」「挫折」と思うだろう。しかし、このことは更なる大きな「成功」への一歩かもしれない。

何故か?

米国の教育者、ジョン・F・ディマティーニは:
「物事はすべて二つの相対するもので補完的に成りたっている。その二つは完全にバランスが取れており、本来は中和されたニュートラルなもの」「人生のどんな局面においても、持ち上げられることなしに落とされることはなく、落とされることなしに持ち上げられることもない。ポジティブとネガティブ、良いと悪い、支援と試練、平和と争い。すべては二つ一組でやっている。そしてそれら二つは同時に存在し、完璧なバランスを保っている。宇宙を構成しているのは、そのバランスなんだ」と、述べている。

今回、金メダルを取れなかった(=試練)ことは同時に良いことが既に始まっていること意味する。
このバランスの意味を深く理解すれば、たぶん「金メダル」以上の成果を今後、彼女にもたらすだろう。
それは偉大なる指導者への道かもしれない。
何かが欠けなければ新しいものは生まれない。
吉田沙保里の例はそのことを意味していると思う。
起こった事の表層的な現象で一喜一憂するのではなく、そのことの深い意味を考えて人生を送ることが必要である。
彼女のこれからに期待したい。

また、バランス(=中庸)が崩れるときに問題が起こるのも真理である。
悪いことだけではない。
南部陽一郎素粒子自発的対称性の破れ、小林・益川の物質・反物質の不整合にしても宇宙のアンバランスを予言したものである。
このアンバランスからビッグバンを始めとして何か新しいもの、創造性が生まれてくることは枚挙に暇がない。

吉田沙保里の「四連覇ならず」から論を進めてきたが、要は起こった現象の背後にある宇宙の真理、人生の意味を深く洞察することにより、豊饒で味わい深い人生が遅れるのではないだろうか。

「圧倒的悲劇を前にして小説は何ができるのか -マルチの視点-」

2011年。3.11の東日本大震災の後、表題の言葉は小説家達が発した言葉である。
小説家の想像を絶する惨事を前にして小説は再生や希望、あるいは癒しを提供できるのかという意味である。

当初、私は小説のようなものが不条理な悲劇を被った人達を救えるとは到底思えなかった。今でも「救う」という言葉には抵抗があるが、再生していく一つの力になるのではないかと思っている。
その惨劇が起こった「意味」を考える。過去の行動を反芻してウジウジ(?)反省するのではなく、むしろ未来に対する「意味」を創造することが大切になる。そのヒントを提供するのが小説の想像力ではないだろうか。
「なぜ私だけに起こったのか」と繰り返し、繰り返し過去を振り返り、出口のない後悔にはまり込むのではなく、未来に対する「意味」を考える多角的視点。このマルチの視点の提供こそ小説の役割であろう。今まで考えてきた単一の価値観ではなく、新しい視点、悲劇が起こった自分なりの「意味」が腑に落ちた時、未来への希望が湧いてくる。

もちろん、肉体労働のボランティア、エンターテインメントも一時的に悲しみを癒してくれるだろう。しかし、本当の心の再生の為には悲劇の「意味」、これから生きていく「意味」を納得した時、体の内側からエネルギーが湧いてくる。これを考えるヒントがマルチの視点だと思う。身に起きた悲劇の感傷に浸るだけでなく、むしろその悲劇が契機になって生まれた新しい人生を生きる精神的糧が「意味」である。中国文学の泰斗の吉川幸次郎が次のようなことを云っている。
唐詩杜甫が代表)は絶望や悲哀が中心であるが、宗詩は唐詩と異なり、「多角的な巨視による悲哀の止揚」と述べている。人生に対する大きな視点を持ち、 悲哀を乗り越えるのだという意味である。宗詩の代表格は蘇軾(東坡)である。多面的なものの見方が人生の絶望さえも乗り越えることが出来る(『宗詩概説』)。絶望や悲哀の情緒的「感傷の美」に浸るのではなく、多面的な見方の大切さを示している。
また、米国の若手の社会学者、エイミー・L・チュアは 「世界をリードする最強の条件は『寛容性』」である」と云う。寛容性とは多様性を認めることから生まれてくる。
IBMフェローの浅川智恵子氏は、本人も障害者である経験から、障害者がイノベーションの源泉・触媒になるという視点を指摘している。障害者の持つ創造性への寄与を力説する。

現在は「多様性(ダイバーシティ)の時代」 とも云われている。
他人の価値観の尊重、多くの意見の交流から新しい考え方が生まれる。教条主義的な価値観の押しつけからは何も生まれない。我々人間はそれほど賢くないのである。
「無知(仏教では無明)」であることを悟ることから先が観えてくる。
般若心経の言葉に「無無明尽」という言葉がある。意味は「無明は尽きることがない」ということらしい。無明(=無知)だから悩みも尽きることがないと。無知だから、起きた現象の背後にある知恵が分からない。これには宇宙の摂理やsomething greatの意図も含まれる。

「圧倒的悲劇の現実を前に虚構の小説が何の役に立つのだ!」という意見もあるだろう。
見えるものだけの世界の論理だけではこの世の不条理は解けない。逆に、虚構の世界の鏡に現実に起こった悲劇を映すことにより、現実の世界の矛盾や不条理の「意味」が見えてくる可能性がある。見えないけれど観ようとする努力の一助が「多面的な思索」である。
それを提供するのが小説ではないだろうか。虚構の世界が実は本当の世界であるというパラドックスを我々は真剣に考えてみる価値がありそうだ。


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陽徳と陰徳

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陽徳と陰徳という言葉がある。
前者は見返りを期待して善行を行うこと(徳を積む)で後者は見返りを期待しないで徳を積むことを意味する。母の自分の子供に対する愛や慈しみは陰徳であり、菩薩愛ともいう。
最近の知謝塾(2015年5月30日)で(株)メンバーズ執行役の原裕氏のCSVの話を拝聴した。CSVはCreating Shared Valueの略で日本語では共通価値の創造と訳すようだ。簡単に言えば顧客やステークホルダーの為に価値共有や善行を積みながら、そしてそれが会社の利益につながるという会社のヴィジョンである。
このCSVマイケル・E・ポーターが提唱している競争力を高める企業戦略の考え方で、いかにもアメリカ的で論理的にみえる。あくまで会社の会計指標ROI(Return on Investment)につながる経営戦略である。
一方、同じような言葉にCSRという言葉がある。これはCorporate Social Responsibility の略で、企業の社会的責任と訳されている。会社の利益の一定額を社会に還元する考え方で、社会貢献活動(フィランソロピー)、慈善活動、メセナのことを云う。リターンを期待しないところは陰徳に繋がる考え方と思う。企業にとっては利益を出すことが最終目標であるのでどちらが正しいというものでもないが、CSR的行動に親しみを感じる。東洋的な心情なのであろうか。

研究者としての経験からいうと、最初から論理的に考えた結論より、偶然出くわした発見を論理的に詰めていく時、大きな成果につながることが多いと感じている。これをセレンディピィティという。人間の論理的思考には限界があり、偶然性や直観力が重要な意味を持つことを示していると思う。素晴らしい研究成果を挙げた人の話を聞くと、研究している時は「ゾーン」に入った状態で、他の研究者と自分を比較したり、嫉妬したりする感情はなく無心に取り組み、ただその研究が面白いからやっている状態が続くらしい。要するに、その研究が成功した暁には有名になるとか、出世するとか、お金が儲かるといったリターンを期待せずに無心になることが大切であることを暗示している。
最初から営為の結果(リターン)を求めても、そう簡単にいかないのが世の常である。むしろ、逆の結果が現われてくることもある。
人間誰しも欲がある。欲があるから、他人より偉くなりたい、負けたくない気持ちがバネになっていい仕事をする人も多々ある。いい仕事をして社会的に偉くなってもそこから権力欲に目覚め、晩節を汚す人もある。最近の研究者の背信の問題も根底ではこのような精神状態に起因する。

欲には際限がない。若いうちは欲の塊であり、「モノ」に憧れる。「何を持っている」「何に成った」と自慢したくなる。その後、「モノ」の虚しさも感じ始め、「知」に憧れる。「モノ」を背後から支えているのが「知」である。知識、世の中を支配している「知」、教養等に価値を置くようになる。上の図に示すように人間の進化とは「モノ」から「知」そして「心」である。
「心」とは「知」を如何に世の為、人の為に使うかの哲学である。ここまで進化しても縦軸に示すように「欲」の世界にとどまっている人、多様性の価値観を許容するまで達する人、さらに利他に重きを置ける領域まで達する人もある。 
図に示すように、「知」と多様性をこよなく愛する人は創造力豊かな人になるであろう。しかし、そうなった途端に「欲」、権力欲、名誉欲に逆戻りする人も多い。「心」の重要性に目覚めても「欲」の世界のままの人もいる。権力欲や名誉欲に執着する僧侶も多いと聞く。

陽徳とはリターンを求める行為である。価値観では「心」の領域の大切を理解しながら「欲」(=俗世)の世界に舞い戻りする心理状態である。どうして利他の領域に突っ走らないのであろうか。それは「モノ」の世界、「欲」の世界が魅力的だからである。
しかし、そこは際限がない。ここで、マリー・キュリーに対してアインシュタインが言った言葉を紹介したい。

マリー・キュリーはすべての著名人の中で、自身が得た名声によって堕落しなかった唯一の人。科学者であっても、科学的な仕事よりも名声を追い求める人がいる。しかし、科学研究が追求するのは真理であって名声ではないということをマリー・キュリーほどはっきりと示した人は他にいない。」

この言葉の意味を噛みしめてほしい。
「心」と利他の領域に達することは難しいが、ここに究極の人生の意味があると思う。
この世界は自分に対するリターンを求めない生き方である。我々は「知」を獲得し、内的成長を遂げていかなければ動物である。そこに生きる意味があると思うが理想論であろうか。

第二回 地域コミュニティビジネスについて共に考える

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My Challenge, My Innovationの第二回は、秋口の10月はじめに開催した。
そのテーマは、「地域コミュニティビジネス」という旬なタームとした。

三鷹市をはじめ、中央線沿線がその先進地域であることはよく知られているところだが、第二回では、長年、代表的なモデルケースとして語られるNPO法人シニアSOHO普及サロン・三鷹代表理事を務めている久保律子さん、それから大手電機メーカーの研究職から独立し、地域に根ざしたベンチャーを起業した隈井裕之さんをお招きした。

シニアSOHO三鷹という組織は、当初、某大手電機メーカー出身の堀池喜一郎さんが、まだ現役時代に某大学OB会で始めたパソコン教室がきっかけとなってスタートした元気シニアのためのコミュ二ティである。
それが、2000年前後のe-Japan戦略あたりの追い風もあって、中央・地方の行政とタイアップしつつ、三鷹周辺のスキルとノウハウに溢れた有能シニアを糾合し、一躍、世間やメディアの脚光を浴びるまでに急成長した。
長年の企業生活でビジネスに関わる酸いも辛いも知り尽くした堀池さんは上品な紳士の風貌を裏切るような独特の毒舌キャラと、育ちの良さもあってか人を集めるカリスマ性も備えた稀有な論客。
今もなおアクティブシニアの伝道師として活躍中だが、その堀池さんがほぼ人間的な魅力とパワーで築き上げた(と思われる)シニアSOHO三鷹の組織運営をそのまま引き継いだのが、(ご本人いわく)ビジネス経験のない主婦だった久保さん。

とは言え、大学卒業後、日本語学校の教師をされていたり、要はスーパー主婦だったわけだが、その久保さんが組織のトップとして課せられたミッションは経営状況の改善という、NPO組織らしからぬシビアな命題であった。

いや、久保さんの講演内容を要約するのがレポートの趣旨ではない。
つくづく思うのは、いわば従来型のオーソドックスなビジネス流儀なるものを弁えないからこそ、久保さんは前人未到と言って良いであろう、確立されたNPO組織の経営改革を成し遂げることができたというパラドックスの興味深さだ。
スーパー主婦が本気になったら、その営業力、交渉力はもしかしたら、どんなプロの営業マンも敵わないかもしれない。
そんな気がする。特に地域やシニアという未開の領地に入れば、合理的なロジカルシンキングを得意とするビジネスマンのスキルも無力になってしまうに違いない。
そして今、有力な新事業領域とされるのは、介護・福祉、農業、高齢者、旅行・観光、娯楽・ゲーム、まあどれもそんな世界ばかりである。
久保さんの後に、第二、第三の久保さんが登場してきたら、おそらく今のこの国のビジネスエコシステムは一挙に塗り替えられるのではないか。そんな気さえしてくる。
恐らく、そうなるのがこの社会にとってハッピーなことだと、個人的には確信するのだが、いかがであろうか。

もう一つ、隈井さんの講演は、退職から起業するまでの赤裸々なレポートであり、個人的な人生設計上で非常に有益な情報を提供してくれるプログラムであった。
かなりプライベートな内容を含むものだったので詳細を記述することはできないが、どのように20年以上も勤めた会社を辞めて、どのような自己研鑽と職能再開発を行い、どのようなビジネスプランを立てて、事業スタートに至ったか、誠に勉強になるお話であった。
こういう語りを聞けることこそが、「挑戦」をテーマとした今回のシリーズの狙いだったわけである。

終了後は、様々なオフレコ話を聞きながら、いつものごとく酔いに任せてつつ、今回は小保方問題の是非を論じることとなった。笑

知謝塾 第三期シリーズ「My Challenge, My Innovation」を振り返る

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今年の後半、知謝塾では、これまでの著名な有識者の先生方をお招きしての講演会というスタイルを変えて、今まさに挑戦的なテーマをみずから掲げて、新しいプロジェクトを立ち上げ、それに取り組んでいる市井のチャレンジャーたちの話を聞く、という試みをスタートさせた。
世で騒がれるイノベーション。それらは結局のところ、個人の密かな、あるいは孤独な挑戦の中からしか生まれ得ない。
ある人は自己実現をめざし、ある人は社会課題の解決をめざして、普通の感覚だったらやらないような挑戦を始めている。
世間はそれらの極々一部の成功例だけを見て、イノベーションだと称賛するわけだが、「在野の知」を探求する知謝塾としては、形となった結果の成否よりも、人を挑戦への駆り立てる一つひとつの個人的なストーリーに注目したい。

そんな思いから、まずは第一の知謝塾サポーターである東京映画社の百々社長に、同社の創業50周年記念プロジェクトとして故郷・高知の安田町で始めた新プロジェクトについて語っていただいた。
簡単に言えば、大容量通信ネットワークが実現した映像クリエイティブ業務のサテライトオフィスということになるのだろうが、百々社長の狙いはそんな時流に便乗した発想とは隔絶している。

いわく、高知県の観光スポットは四万十川をはじめ県西部に集中しており、安田町を含む県東部はライオン宰相と言われた濱口雄幸をはじめ、日本の近代化に貢献した多くの大物を輩出したにもかかわらず、今日では顧みられることが極端に少ないという。
ところが観光や工業化による地域開発が遅れた結果、21世紀に入ってからも、その地域一帯には海、山、川、谷などの自然が原風景のまま残っており、これが映像制作の世界で40年以上を生きてきた百々社長のクリエイター魂に火を着けた。
4Kなどの超高精細画質での撮影が可能となっている今、もしかしたら、これら自然の息吹をそのまま映像として残すことができる最後のチャンスかもしれない。
そう思うと、事業的な損得を抜きにして、これらの自然を映像に収めずにはおれない。
そんな熱い思いが百々社長を、ほぼ打算や計画なしの段階から、このプロジェクトに足を踏み出した最大の動機だったらしい。

しかも、それらの映像は、ただ撮影するだけでなく、同社が手掛けている顧客企業の各種映像にプライスレスな付加価値を与えるはずだ。さらにそれが海外での展示会などで利用されれば、暗黙のうちに「日本列島の自然の美」という魅力を知らしめることにもなろう。
計算づくではないにせよ、20年以上もの間、同社の社長として切り盛りしてきた経営者の嗅覚がこのプロジェクトに隠された潜在的な事業性に敏感に嗅ぎ取ったというわけだ。

なるほど言われてみれば、息を呑むような美しい映像の数々である。
しかし、それ以上に魅了されるのがそこで育つ無邪気な子供たちの輝く瞳だという。それはまるで戦後のベビーブームに生まれ、貧しいながらも未来へ無限の希望を感じて健やかに生きる子供たちのようだ。それは、どんなに饒舌な言葉よりも、またどんなに緻密に作られたシナリオよりも、現代の我々の生き様に対する鋭い批判となるはずだ、と。

百々社長はじめ、同社の高知の地でのチャレンジはまだ始まったばかりだが、既に地方創生の気運を先駆け、様々な形で注目を集めている。そんな中から思いもかけない展開が生まれることもあるだろう。

今回の講演会はそんな準備段階でお願いしたものであり、百々社長には不本意な点もあったかもしれない。その点は申し訳ない限りなのだが、「挑戦」をテーマとした第3期シリーズのトップバッターとしてはうってつけの内容だった。
その日、会場に集まった多くは、いつものとおり研究者・技術者の方々であった。
しかし、映像という世界はテクノロジーを探求する人たちにとっても別世界ではなく、一人の例外もなく映像表現の可能性に格別な関心と期待を寄せていた。
ここが興味深いところだ。
コミュニケーションとテクノロジーの境界線を越えるトリガーが、この映像という媒体には隠れているような気がする。

映像、自然、地方、そして創造力と想像力。
これは地方創生という一過性のタームで終わらないはずである。
百々社長の挑戦に引き続き注目していきたい。