孫の笑顔から

孫の笑顔を見ていると、「目に入れても痛くない」という言葉が良く分かる歳になってきた。

孫は二歳であるが、玩具を片付けしたので手を叩いて褒めてやると、自分でも手を叩き、玩具を出しては片付ける行為を幾度となく繰り返す。

その度に褒めてやると満面の笑みで自分も手を叩いて喜ぶ。

誰でも経験があると思う。

人間には褒めてやるとその行為を喜んでやるDNAが生まれつき備わっていることが分かる。 

褒められる、尊敬されることを欲する遺伝子だ。

褒めて人を伸ばすやり方に通じる。

一方、行為の結果よりも、褒められることが目的になり、不正に繋がる危険性もある。

「ただ褒められたくて」という感情から、不正をしてまで金を稼ぐ、異常な競争心で社会的地位向上に邁進する人が出てくる。

他人から得られる称賛、名誉、他人より優れているという感覚を得たいという本能的欲望、これが「卓越への情熱」(経済的利益の追求より大きいと云われている)である。

「卓越への情熱」が異常な「権力志向」へと変わると問題が起こってくる。

この「欲望」を抑制するのは徳、無私、去私、自己犠牲の価値観であろう。

 

人間が本能的に持っているものにもう一つある。

他者の行動から、いかに道徳的に振舞うべきかを観察し学習する能力である。

これを司るのが1996年にイタリアのパルマ大学のジャコモ・リッツォラッティ氏によって発見されたミラー・ニューロンである。

「他者の意図や喜びや悲しみを自分が直接理解するツール」でもある。 

「感情移入」や「己がやってもらいたいことを他人にやってあげなさい」(倫理的黄金律)という考え方にも通じる。

社会的相互作用の促進に適合したミラー・ニューロンは、キリスト教イスラム、仏の慈悲、儒教の仁の思想にもある。

しかし、宗教よりも先に人間のDNAに刷り込まれた本能である。

これらの良き遺伝子も「欲望」「煩悩」に負けてしまう場合がある。 

他人と比較することによって生じる「嫉妬心」である。

これも「慈悲の心」、「利他の心」によって制御する必要がある。

上記の二つは人間が本能的に持つ資質であり、「心の問題」である。

人間は何故、このような素晴らしいDNAをそのまま伸ばすことができないのであろうか。

釈迦はこの心の問題以外にもう二つのことを覚醒として提示している。

「無常観=常ならず」と「因果応報」である。

全てのものが常に変化する、「無常」とは人間だけでなく、全ての生物に当てはまり、生物学の「所与の知」といってもよいだろう。

また、「因果」は物理法則でもある。

この二つは「真理」といってもよい。

 

現在安倍内閣を見ていると、平家物語の「祇園精舎の・・・・」の冒頭の一節が思い出される。

世の中は本当に常ならずと思う。

また、驕れるもの久しからずという因果応報の感情が湧いてくる。

これら4つの釈迦の覚醒は人生の本質を看破した箴言であるが、特に上記二つの「心の問題」は奥が深い。

折角、持って生まれた素晴らしい資質(DNA)も権力欲や嫉妬心といった「欲望」によって雲らされてしまう。

この欲望は他人と比較することによって生まれるものであるが、釈迦は「欲望の制御」の一言で諌めている。

マザー・テレサは次のように云っている、「人は不合理、非倫理、利己的です。気にすることなく人を愛しなさい・・・」

そして、「最後に振り返ると、あなたにも分かるはず、結局、全ては、全てあなたと内なる神との間のことなのです。あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです。」と。 

他人に対する比較や感情も全て、内なる神(=自分)との対話のなせること。

「他人は自分を映す鏡」とも云う。

内なる自分と向き合うことにより、自分の本来の良さを見つめ直す以外に処方箋はないのかもしれない。

それが「欲望の制御」につながるだろう。 

平凡なる非凡

「平凡なる非凡」という言葉がある。
波乱万丈な人生よりは平凡な人生が素晴らしい。
しかし、この平凡な人生を生きるのが難しい、という意味であろう。
若い時には味わえない考え方である。

若い時は青雲の志を持って、前へ前へと進み、立ちはだかる敵を打ち砕いた織田信長的生き方に憧れる。
人を押しのけ、嫉妬し、妬み、その気持ちをエネルギーに変え、それでも前へ進むことに憧れを持つ。
失敗しても、挫折しても、結果はともかく、前に進む生き方に価値を見出す。
見えているのは自分のみである。
作家の藤沢周平も「普通が一番」という言葉を残している。
何故「平凡」がいいのだろう。

時には挫折し喪失感を味わい、鬱状態になり立ち直れない時期もあるだろう。
この精神状態を味わった後に、「人生は自分が思う通りにならないものだな~」と初めて自分の存在の意味を意識する。
何のための人生だったのだろう?
人を蹴落とし、偉くなったことに何の意味があるのだろうか。
蹴落とされた相手の気持ちが分からないのか!
偉くなった自分の姿を見て、周りの人たちは自分を称賛しているのだろうか……。
普通の人なら一度は誰でも抱く気持ちである。
社会的地位を上げることに価値を見出し、何に成った、何か特別の持っていることに価値を見出そうとする。
他人と比較することによってのみ、自分の存在意義を感じる生き方である。
「世俗的成功」を唯一無二の価値観とする生き方である。
これを実現するために、人よりも数倍努力し、危ない橋も渡り、時には嘘もつき人も騙し、とにかく一直線に進んできたことだろう。
その努力、そのエネルギーには敬意すら感じる。

しかし、人生は単純ではない。
自分の人生の一時的成功と引き換えに家族等に問題が起こる。
また、自分自身、病気になったりもする。その時、「平凡が一番素晴らしい」という思いが湧いてくる。
人生はプラスマイナスゼロ。
禍福は糾える縄の如し、といった箴言が胸をよぎる。
世俗的成功だけを夢見た自分の幼さ。
他人の目を通してしか自分の価値を測れなかった未熟さ。
一方、何気ない自然の振る舞い、風に揺れる野辺の草、虫の鳴き声にも大自然の摂理の素晴らしさを感じる。
一途に「外的成功」を追い求めた自分自身に疑問を感じるようになる。
そこから多様性の素晴らしさが身に沁みてくる。
人それぞれに価値がある存在だと。
一つの価値観だけに固執した自分が恥ずかしくなる。
他人の人生を尊重し、利他の精神の重要性に気付き、自分の「内的成長」を感じる時に、初めて、平凡な人生の内側から湧いてくる精神的安らぎを堪能できるようになる。
外的成功は人生の表の顔で、内的成長は裏の顔かもしれない。
外的成功の虚しさを味わった後に内的成長の重要性に気付くといってもよい。
人間の精神的成長には両者が必要なのだろう。
しかし、若い時から「平凡な人生」の意味を意識すると人生が豊かになるかもしれない。
「勝った、負けた」、「もっと、もっと」の経済成長至上主義もそろそろ限界に達している。
かっこよく見える波乱万丈の人生の空しさ。
一見単調に見える「平凡な人生」の豊饒さ。
この視点から新しい人生の価値観が見えてくるのではないだろうか。

A Blessing in Disguise (仮装した祝福)

 「a blessing in disguise(仮装した祝福)」という言葉がある。

意味は“一見不幸な出来事も仮装しているだけで、実は天の祝福、恩恵なのである”ということらしい。

別の言葉でいうと、“どんな逆境に遭っても決して天を怨まず人を咎めず、自らを信じて心穏やかに道を楽しむ「これは天命だ」と受け入れる。そうすると、霧が晴れわたるように視界が開け、天から梯子が下りてきて思いもよらない幸運に恵まれる”らしい(渡部昇一)。

人生にとって最も大事な「自分の使命を果たす」ためには払った代償が多ければ多いほど経験は貴重なものとなるということか。

ここには絶大なる天(=神)に対する信頼がある。

 

最近、山口栄一京大教授(5月6日に知謝塾で講演していただいた)の著書『死ぬまでに学びたい5つの物理学』を読んだ。

新しい物理学を切り拓いた数式の説明のよりも物理学の巨人の人生や人間性に焦点を当てている名著である。

それにつけてもこの中に取り上げられている巨人たちは必ず逆境や挫折を経験している。

科学の神秘のベールを持ち上げた栄光の影には逆境や苦悩が寄り添っているように見える。

母親に捨てられたニュートン、自殺したボルツマン、息子をナチスに殺されたプランクユダヤ人としてドイツを追われたアインシュタイン……。 

 

源氏物語』のモデルである藤原道長も「望月の欠けたることがない」といわれた前半生も、後半生は道長自身も病魔におかされ、三男、顕信や入内した子女も次々に死去するという不幸に襲われる。

人生とは栄光と挫折が織りなすドラマであろうか。物質とは粒子と波の両方の性質を持つことを発見したのはドゥ・ブロイであり、量子力学の常識になっている。

しかも、F(波としての周波数)=c/h・P(粒子としての運動量)という式で関係づけられる。

人生も栄光と苦悩という両方の性質を持っているのであろう。

栄光が大きければ大きいほど苦悩も大きい。

心の持ち方によって苦悩も天の恩恵になる。

「山高ければ谷深し」、「禍福は糾える縄の如し」、「艱難辛苦、汝を玉とする」とか、多くの箴言が浮かんでくる。

しかし、まだ人類が手にしたことのない「人生の方程式」はもっと深い意味を暗示しているように思われるのだが。

 

“「学歴」、「職歴」よりも「苦歴」”という言葉が最近、耳に入るようになってきた。

履歴書には学歴、職歴が必要であるが、書くに書けない苦歴が本当は大切であるということだ。

苦歴こそがその人だけのものであり、その人を語るもっとも雄弁なものとなる。

日本ではまだ、転職が良く思われてないが、米国では既に貴重な経験として失敗、挫折さえも苦歴として尊重されている。

苦を乗り越えた経験が業績(=宝)として輝くのである。その意味でも挫折は「天の恩恵」といえるだろう。

 

「正の10を10個足すと100になる。負の10同士を掛けても100になる。答えは同じでも正を積み重ねた100には陰翳がない」といったのは歌人、故塚本邦雄である。

陰翳はその人間の「深み」や「徳」につながる。 

挫折を経験した人は他人に対して優しさや思いやりを持つことができる。 

そうすると「自分の本当の使命」が見えてくる。

有名になりたいと欲する熱病と闘い、欲求を満たすことを人生の目的することを止め、「簡素な精神」(シャルル・ヴァグネル)に戻ることが必要になってくる。

栄光だけを必要以上に求める態度からは人生のバランスが壊れていく。

現代はあまりに正ばかりを追い求めて「もっと、もっと」の精神に染まっていないだろうか。

栄光と苦悩についての関係についてさらに思考を深めたいと思う。

科学者の魂に触れる

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次回の知謝塾にお招きする山口栄一先生の最新著は、今年の2月発行された『物理学者の墓を訪ねるーひらめきの秘密を求めて』というエッセー風偉人伝だが、ご本人いわく、昨年暮れに出た『イノベーションはなぜ途絶えたのかー科学立国日本の危機』と表裏一体の関係にあるそうだ。一見したところ、この二つの著書は対照的にも思えるが、なるほど、ご本人がそう強調するように同じ精神の両極に違いない。意表を突いて何とも意味深なことをおっしゃる先生である。

 

文系人間にしてみれば、「科学」とは、できることなら一生、近寄らずに生きていたい異境である。しかし、科学史を彩る巨人の生涯と業績を入門風に解説する意匠として、のっけから墓を持ってくるところには心憎い「知の成熟」を感じる。

 

「科学者スーパースター列伝」ともいうべき本書の結論部分で、「科学者の魂に触れる」と題して書かれた一節のみを、ここではあえて紹介したい。

 

久保(亮五)は湯川(秀樹)と朝永(振一郎)に触発されて未知の世界に入ることの重要性を知り、独力で非均衡統計力学の基礎を創った。久保の存在によって東大の物性物理学は世界のトップに躍り出たといえる。そこから巣立った研究者たちが、やがて半導体物理学の基礎を築き、日本の半導体技術が進展していくことになる。

1980年代、「材料」という物質の世界で日本は世界のフロントランナーとなった。その結果、パラダイム破壊型技術にほかならぬ高電子移動度トランジスター(HEMT)や青色LEDなどをゼロから発明し、その成果をイノベーションに結実させた。

日本の物理学と技術イノベーションをそこまで進展されたのは何だったのだろうか。

朝永は言っている。「『好奇心』は、少なくとも科学という、人間精神の重要な営みに対して、ひとつの大きな原動力となっている」(『好奇心について』)。これを湯川は、「自分の内側にわざわざ達成できないような理想を温存しているということですね。理想と現実の矛盾を生きる糧にしている」(『私の生きがい論』)という言い方で表現している。

すなわち科学と技術イノベーションを推し進める原動力は「その謎を解きたい」「誰もできないと思っていることをできるようにしてみたい」と考える、真理を追い求める取り組みなのである。

その技術イノベーションの仕組みは、日本では1950年代に大企業の中央研究所というかたちで表れた。1980年代、企業の旺盛な研究意欲は基礎研究の裾野を科学の方に広げることを許す。その結果、多くの技術イノベーションが日本から生まれた。1990年代前半までに日本の企業研究所は世界でもまれに見るイノベーションのエンジンとなったのである。

なぜそれができたのか。それは、日本企業の中央研究所の科学者たちがそれぞれの分野でパラダイム破壊を起こせるトップリーダーに、確かになったからであった

ところが、1990年代後半に、日本の技術系大企業は科学の本質を理解することなく、中央研究所を次々と閉鎖・縮小する。それは科学者たちを内側から動かしてきた真理追求への情熱を抜き去り、日本のイノベーション・システムを滅ぼすことを意味した。実際、かつて世界をリードしてきた日本のエレクトロニクス産業は、パラダイム破壊型イノベーションを起こせなくなって、今や見る影もなく凋落した。

かつては世界をリードした日本の科学とテクノロジー。その未来は危機に直面する「科学者の魂」を再興できるかどうかにかかっている。

 

文字打ちしながら、図らずも興奮してしまった。それほど入魂の一節、これこそ、『イノベーションはなぜ途絶えたのかー科学立国日本の危機』で山口先生が訴えていた本質に他ならない。

とかく批判的文脈で安易に語られる日の丸半導体の興亡史だが、長岡半太郎仁科芳雄から始まる近代日本の科学者の系譜を視野に入れなければ、決して理解できないことを痛感させられる。

少なくともこの一節で説かれた「歴史認識」だけはシェアしておきたいものである。

<開催案内>第30回知謝塾京都大学総合生存学館・山口栄一さん「イノベーションは なぜ途絶えたかー科学立国日本の危機ー」

2012年4月にスタートした知謝塾はおかげさまで通算30回目となります。
記念すべき第30回にお迎えするのは、京都大学の山口栄一先生です。
生粋の物理学者としてスタートしながら、壮観とも言うべき多彩なご経歴を通して培った深い文明史的視野から、現実課題の本質を告発・提起、日本の未来に向けて科学技術・イノベーション政策のあるべき姿を訴える憂国の賢人です。
 
テーマは「イノベーションは なぜ途絶えたかー科学立国日本の危機ー」。
これまでの知謝塾でも何度となく、熱い議論を展開してきたテーマであり、それらの集大成になるのではと期待しています。
 
ゴールデンウィーク中での開催になりますが、ご興味のある方はぜひお早めにご連絡ください。
 
<日時>
2017年5月6日(土曜)14:00~17:00
 
<会場>
「みたかふれあいサロン」
〒181-0013 東京都三鷹市下連雀3-38-4 三鷹産業プラザ(3F)
 
<参加費>
2000円
※参加希望者の方には別途、懇親会の御案内をさせていただきます。

 

 
<申込方法>
chishajuku@gmail.comへ参加希望の旨をご連絡ください。
 
以上
 
知謝塾運営事務局:飯塚

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【塾長エッセー】笑いの効用

会社を退職した後、何か地域でボランティアみたいなことをしたいと思っていると市報に「江戸小噺養成講座」という記事が目に留まった。
昔から落語は好きで、時々寄席に行っていたが、自分が小噺をして老人ホームや介護施設を廻るとは思ってもいなかった。
4回の養成講座が終わると、即、本番のボランティアである。
既に4年間が過ぎている。
因みに私の高座名は「天福亭笑英」である。
 
笑いとは何であろうか。
精神科医斎藤茂太氏によれば「一笑一若」「一怒一老」らしい。
一つ笑えば一つ若くなるという訳だ。
うつ病認知症になる人はユーモアやジョークを解さない、まじめな一辺倒の人が多いそうだ。
心の健康のためにも笑おう。
笑った数だけ元気になる。
人は楽しいから笑うのじゃない、笑うから楽しくなる。
笑う門には福来たる! 

プライドの高すぎる人は笑えない。
バカにされるようなことをいわれると、すぐヒステリックになる。
地域のボランティア活動で目につくのは男性の数が極端に少ない。
我々の仲間でも男性は一割くらいである。
前職の地位が邪魔して出来ないのだろうか。
プライドを脱ぎ捨てよう! 

行き詰っている人や困難な状況にある人たちに対して発想の転換を促すような力が笑いにはある。
笑いには開放する力、人間性を回復する力があるそうだ。
笑いは逆境においても希望と勇気を生む。
ある介護施設に行って小噺をした後、スタッフから云われた言葉が耳に残っている。
「あの人、最近、無口で塞ぎ込んでいたのに、今日は随分、笑って、はしゃいでいたね!」。
嬉しい経験である。

「男の顔は、男の履歴書」(大宅壮一)、「女の顔は請求書」と云ったのは吉行淳之介
前述の斎藤氏は「笑顔はその人の履歴書」という。
私は「笑顔はその人の精神的成長」と云いたい。
笑顔にはその人の心の内面、人柄が現われてくる。
笑いは人生の特効薬で万能薬だ。
「時薬」「日薬」という言葉あるように、「笑い薬」という言葉があってもいい。
笑って過ごしているうちに、体調も良くなる状態のことをいう。
筑波大学名誉教授の村上和雄氏も「眠っている良い遺伝子を「笑い」によってON状態にすることで糖尿病や末期がん患者の余命も伸びた」という報告もある。
まさに、「笑い」は笑いごとではなくなっている。

笑いの源泉は「教養」だといわれている。
教養が高い人は、より多くの笑いの種を発見することができる。
江戸時代では、落語を嗜む人は教養人だといわれた。
義太夫節では「笑い三年、泣き三月」と云われ、笑いを取るのは難しいといわれている。
実は、洗練された嘘や冗談を並べて語るのは真理を語るよりずっと難しいのだ。
だから、笑いは成功した時には多世代交流や地域の活性化のコミュニケーション手段になる。
 
我々の「江戸小噺笑い広げ鯛(代表は高野まゆみさん)」は普通の落語のように落語家が提供する噺をただ聴いて笑うというスタイルは取らない。
聴衆も参加し、しかも演じてもらう、双方向の笑いを提供する。
いわば、衆が作る笑い、素人が作る笑いの場である。
もちろん、素人だけにハプニング、失敗の連続であるが、新しい笑いの姿がそこにはあると思う。
俳句は「座の文学」と呼ばれ、共同体の文芸である俳諧の発句から始まっている。
そこには参加者が作る座の感興があっただろう。
同じように、我々の車座になってやる「座の小噺」は談笑し、睦み合いながら衆が創り上げる「笑いの場」と云ってもよいだろう。
時には独自の小噺かるたや手拍子をつけながら唄う小噺小唄もある。
エアー三味線による都都逸の披瀝もある。
何でもありの世界であるが、その中から新しい創作小噺が時々生まれてくる。
まさに、「笑いの革命鯛」と云ってもよいだろう。
毎年、新しい鯛員、新しい訪問先も増えている。
これが鯛(隊)の新陳代謝を促進する秘訣かもしれない。
 
最近、ブータン王国や世界一貧しいムヒカ大統領の影響で、「幸福度」という言葉が流布しているが、国民総生産(GNP)と国民の笑いの量「国民笑生産(GNL:Gross National Laugh)」で国民の幸福度を測る指標も必要な気がする。
「叡智聡明なるとも之を守るに愚を以てす」という言葉がある。
愚を提供する「笑い」は聡明な「知」より上かもしれない。心掛けたいものである。

寄席囃子と「よ~お、まってました!」の掛け声が聞こえてきたので早速出かけることにしよう。
お粗末でした!お後が宜しいようで・・・・・。

無知の認識

今年のベストセラー『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)は一読に値する本である。
その中で、17世紀の「科学革命は・・知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だった」と述べている。
また、「進んで無知を認める意思があるため、近代科学は従来の知識の伝統のどれよりもダイナミックで、柔軟で、探究的になった」と。
この無知の認識は科学・技術の探究だけでなく、人生を送る上においても大切である。
自分は無知である、何も知らないという考え方が傲慢にならず、謙虚で感謝に満ちた人生を生きられる。
謙虚になると少し先を見せてくれる。
傲慢からは何も生じない、思考停止である。
私の経験では無知の自覚が見える世界だけでなく、見えない世界の扉も開かせてくれると思う。
見えないものを見ようという努力が、宮本武蔵の「観見二つの事」、世阿弥の「離見の見」のように、ものごとの本質を観抜く力が養われる。
皮相的な見方ではなく、現われた現象の裏にある本質的な「意味」を理解できるようになるだろう。
それにより、人生の深い意味を理解し、“something great”の意図も感じられるようになる。
まさに、心耳、心眼でものをみるやり方である。
芥川龍之介の「末期の眼」の感覚も同じであろう。
見える世界だけに囚われて、自分が無知であるという自覚が薄くなると本質が分からなくなる。
カエサルがいう「多くの人は見たいと欲するものしか見ない」状態になる。
見えないものの中に本質が隠されている。
この感覚が科学でも人生でも新しい発見、納得に繋がっていく。
 
般若心経の中にも「無無明尽」いう言葉がある。
我々人間はそれほど賢くない、無明(無知)は尽きることはない、無知だから悩みも尽きない、無知だから起きた現象の「背後にある知恵」が分からないと。
だから「無知という自覚」があれば、少しでも背後にある知恵や宇宙の摂理が分かってくるのではないだろうか。
無知の知」がなければ、全て分かっていると思い、その瞬間に、思考停止と傲慢がはびこるだけである。

今、宇宙でもダークエネルギーダークマターが解決できていない問題として残っている。 
いずれは解明されると思われるが、同じように「ダークナレッジ (Dark Knowledge)」が見えない世界に存在するように感じている。
ダークナレッジを解明しようという無知の認識が科学革命と同様に新しい扉を開くかもしれない。
それが人間の叡智になるだろう。
現在、マインド・フルネスや気付きの重要性が叫ばれている。
これは見えない世界を見ようという努力であり、無知の自覚により、謙虚になった時に初めて何かをつかむのである。
無知の認識により生じた科学革命は産業革命を通じて人類に多大なる貢献をしたことは事実である。今、我々はその成果に浴している。
しかし、その知性至上主義は新たな問題を引き起こしている。
デカルト、ベーコンによってもたらされた人間の理性・知性が自然を支配できるという思想(傲慢)が環境問題を引き起こしている。
無知の認識によってその扉を開いた科学革命は自然を無機質な機械と捉え、自然は生きているという生命的なものを切り捨てたのである。
ものごとを追求していくとその過程で二次的なものを捨象する。 
それが現在、環境問題、資源問題として人類を苦しめている。
このパラドックスを考えなければならない。
ある考え方を一方方向に導くと必ず、捨象するものが生じる。
これが科学的方法論である。
複雑系を複雑に処理することは難しい。
捨象されたものを如何に拾い上げていくかも今後の人間の叡智である。
これが二元論の先にあるものである。
無知の認識は新たな無知を呼び起こすがこれこそが人間に課された課題であり、解決されたと思ったらさらに解明すべき課題が横たわっている。
この絶え間ない探求が人類の進歩なのではなかろうか。

皆様の2017年が素晴らしい年になります様に!